玉砕はしないと言えた人たち
玉砕はしないと言えた人たち
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これが私の戦争だった」ーー1兵士の太平洋戦争ーー井手静著
高校生文化研究会=1982年刊==(凸版印刷)
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🦊「玉砕せよ」と部下に言い残して、早々とピストル自殺をした将校の話
などを聞くたびに、自己の無責任と臆病を自ら言い訳し、美化さえする、
何が大和魂か、と無性に腹が立つ。
次の体験記「これが私の戦争だった」は、違う行動をとった兵士と上官の
物語である。
p100 転属命令
(井手伍長はシンガポール守備隊の野戦自動車廠に勤務中に、突然
転属命令を下された)7月31日のことである。午後4時、部隊本部の「命令会報」を告げるラッパが鳴り響いた。我が
勤務中隊の命令受領者である長身の村上曹長が、急いで飛び出していく。
戻ってくるなり、私に言った。「井手伍長、後で中隊事務室まで来てくれ」
今年の3月、私は兵長から伍長に進級していたのである。勤務中隊事務室に
入り、机の上の文書をちらりと見た瞬間、私は頭部にガンと一撃を喰らった
ような衝撃を受けた。それは、「転属命令」だったのである。
転属命令というのは、軍人にとってこれほど重大なものは無いとさえ言える。
死地に赴くのも、この転属命令によってであるのだ。(中略)
転属命令書には次のように書かれていた。
作戦命令第○号発 部隊長片岡大佐
昭和20年8月1日付け
勤務中隊 陸軍伍長 井手静
同 陸軍上等兵 村上三義
同 陸軍一等兵 堀田弥四郎
右者軍令陸甲第〇〇号及岡総発第〇〇号により岡第〇〇部隊に転属を命ず
・・その夜、日ごろ尊敬する秋田県出身の佐藤忠勝曹長を訪ね、転属の件を
相談した。佐藤曹長はトツトツとした東北弁で、「まあ、井手、一杯やれえ」
と茶碗を差し出してくれた後、命令書の写しを取り上げて眺めていたが、突然
驚きの声をあげた。「ちょっと待てえ、井手、お前の転属する岡〇〇部隊と
いうのは、今般マル秘で新設された対戦車特別攻撃の教育隊だぞや」
・・私に発令されたのは、"特攻隊"への転属命令だったのだ。居住まいを正した
佐藤曹長が、静に口を開いた。「井手よ、戦局はまさに重大だ。お前をはじめ
村上上等兵、堀田一等兵は、我が勤務中隊の模範的下士官兵だ。まず、この
転属命令では死を覚悟せよ。しかし、お前たちだけでは死なせん。我々も必ず後から行くからな。井手よ、きっと・・」佐藤曹長と別れの杯を交わした後、
私は村上、堀田の二名と、明朝の部隊長への申告の段取りを打ち合わせ、二人に
身辺の整理を命じて自室へ戻った。・・一応身辺整理が済んだところで、鳥取県
出身の村上曹長が訪ねてきた。「身辺整理が済んだら、井手よ、恩賜の煙草だ。
吸わんか」菊の紋章入りのタバコを差し出された時、思わず私の目から涙が
はらはらと落ちた。とうとう遺書は書かずに就寝した。
2階級特進!
明ければ8月1日である。午前9時、背中に背嚢、鉄帽を背負い、腰に120発の
実包をつけ、手には歩兵銃を持った軍装で、村上、堀田の二名を引率して、
部隊本部の部隊長室へ出向した。・・日頃は行ったことのない部隊長室なので、
私たちはコチコチになって入っていった。
「申告に参りました」「よしっ」
「陸軍伍長、井手静以下三名の者は、昭和20年8月1日をもって、岡第〇〇
部隊に転属を命ぜられました。ここに謹んで申告いたします。敬礼!」捧げ銃
をすると、部隊長の鷹揚な返事が返ってきた。「よし、ご苦労」
部隊長室を出ると、戦友の辻内富士雄伍長に呼び止められた。私たちを隣の
部屋に導いた辻内伍長は、厳粛な口調で言った。「お前たち三名は、2階級
特進であるぞ」思わず私たち三人は顔を見合わせた。・・2階級特進となると、
私は軍曹を飛び越して一挙に曹長となる。しかしその時は、もう私たちは
この地上に生きてはいないだろう。・・私たちは心中密かに「いよいよ来たる
べきものが来たのだ」と覚悟を決めたのであった。
特攻訓練
翌8月2日朝、術科訓練に先立って行われた教育隊長の訓示は、ひときわ強烈を
極めたものであった。「悠久の大義に生きよ」と戦陣訓を引用してのその訓示は、
お前たちは死ぬためにこの特攻教育課に来たのだという観念を、私たちの頭の
中に叩き込むものであった。
演習開始のラッパが鳴り響き、演習が始まった。3中隊2班・井手班の三名は、
一番・井手、二番・村上、三番・堀田と一連番号が付され、それぞれの任務を
与えられていた。まず三人1組で、背に負ったエンビ(シャベル)と十字鍬とで
三人がすっぽり入れるくらいのタコツボを掘る。深さはおよそ1m50センチ、
その中へ長さ2・5mの刺突爆雷を持って三人が潜むのである。次に、このタコツボから地上がよく見える潜望鏡を出し、そのレンズに一番の
私がかじりついて前方を注視する。潜望鏡にはメーターがついており、300m
を起点として、前方から戦車が近づいてくるにつれ、そのメモリが50m単位で、
250m、200m、150m、100mと表示がでた瞬間、三人が爆雷を抱えて地上に
飛び出し、戦車目掛けて突進するのである。
爆雷の持ち方はあたかも「肉弾3勇士」の如く、まず私が先頭に立って指揮を
とりつつ爆雷の信管を抜く。二番目の村上は私の後ろ、中央にあって、爆雷が
ふらつかぬようにしっかりと支え持ち、三番の堀田は最後尾、爆雷を押すよう
にして走る。
そしてこの決死隊三人もろとも敵戦車に体当たりして、これを爆破するという、
誠に日本陸軍ならではの"神風的"戦闘法であった。
<イラスト冨永つとむ 本文より無断拝借。>
壕の周囲や私たちの鉄帽、被服は、敵戦車に見つからぬように、付近の
草むらや土の色に似せた同色迷彩でカモフラージュしてある。こうして三人、
身を固めて壕の中に潜み、潜望鏡をのぞくと、"仮設敵"の戦車の砲塔から、
鉄帽に白帯を巻いた少年戦車兵がときどきこちらを見ていた。
M1とかM4といった三十トン級の超重戦車に対しては、私たちの刺突爆雷
でその砲塔を攻撃するなどというのは及びもつかないことである。そこで
薄い部分をねらって刺突爆雷をぶち込むという戦法をとっていた。
ーーとこう書けば、簡単なようであるが、しかし実際の訓練は大変であった。
演習であるから、"仮想敵"が撃ってくるのは、もちろん弾薬の入っていない
空砲であるが、戦車の機関砲や重機関銃でバリバリ撃ってくるタマは、空砲と
言えども非常な威力があった。
一般演習中に、38式歩兵銃で撃ち合うときも、30m以内に接近した場合は、
空砲とは言え危険であるから、空に向けて撃つのが基本であり、常識とされ
た。南方では演習中によく蛇を見かけたが、歩兵銃に空砲を装填して、
ぶっ放すと、蛇はバランバランになって飛び散ってしまうほどであった。
その空砲が、戦車の砲塔から火を吹いて飛び出してくるのだから、演習中に
負傷者が出ないのが不思議なくらいであった。口の重い村上上等兵が言った。
「これでは、まず生還は期し難いですね。敵前50mで飛び出した時は敵は
バリバリ撃ってきているんだし、 その一発が刺突爆雷にでも命中し
たら、我々の体はたちまちコッパミジンでしょう。うまく突っ込んだ時は
もちろんだけど・・」
「それが肉弾3勇士の運命だよ」私が答えると、堀田一等兵がボソッと
言った。「そうすると、2階級特進なんて安いもんですね」
それにしても毎日、猛訓練が終わり、宿舎の内務班に帰ってくると、夕食に
出てくる加給品の豊富さに驚いた。酒こそないが、饅頭、大福などの甘味品、
マンゴー、マンゴスチン、パイナップル、ドリアンなどの果物、高級タバコ
のスリーキャッスル、 パイレーツの缶入りなどが、山の如く出てくるので
あった。どうせ先の決まった特攻隊員の命だ、生きているうちにたっぷり
食わせてやれとの、教育班長の思いやりだったのだろう。訓練は対戦車攻撃
だけではなかった。手旗信号なども含み、各班同士の連絡方法の訓練も
あった。こうして、熱帯の炎熱のもと、猛訓練、猛演習のうちに8月の日々が
過ぎていった。
p111 敗戦・混乱・放浪
8月15日、内地では、正午、天皇陛下自らのラジオ放送によって、「終戦」が
知らされたが、シンガポールの私たちには何事も知らされぬままに過ぎた。
翌16日も過ぎ、17日を迎えて、午後4時、突如として非常招集のラッパが
鳴り響いた。攻撃隊員全員が集合すると、教育隊長が壇上に上がった。
顔色が青ざめ、緊張の様子がありありと見える。腰の軍刀をすらりと引き
抜き、型の如く敬礼が終わった後、隊長の口をついて出たのは、思いがけぬ
言葉であった。
「天皇陛下の命により、当教育隊を、ただいまをもって解散する。よって各
下士官兵は、速やかに原隊に復帰せよ」
一体どうしたのだ?教育隊長の突然の解散宣言だけではよく事情が飲み
込めず、私たちは混乱した。私たちは今日だって猛訓練をやった、それなの
に、この特攻隊を解散するのはなぜなんだ?しかもそれが、天皇陛下の命令だ
というのは、どういうことなんだ・・?
やがて各原隊から迎えの自動車がやってきた。車に駆け寄った私たちは、
運転席の兵に尋ねた。「一体どうなったんだ?何があったんだ?」運転席の
兵の返答はあっけなかった。「終戦になったんだってさあ」
p114 竹林地少佐の自決
原隊に帰り、勤務中隊事務室に行くと、長身の今村曹長がいた。今村曹長
は、私を見るなり言った。「井手、死ぬなよ。死んではいかんぞ」
今村総長がなぜこの一言を発したのか、そのわけはすぐ分かった。天皇陛下
の終戦の 詔勅が伝えられるとともに、シンガポールはじめ南方駐在の各部隊
には大混乱が生じ、収拾すべからざる状態となって、自決(自ら命を断つこと)
する将校下士官兵が続出し、そのため各部隊では幹部が必死になって自決寸前
の者たちの説得にあたっていたのである。まして私は、つい先刻まで、決死の
特攻隊員として覚悟をきめ、猛訓練に励んでいたのである。終戦によって、
不意にその精神の支柱を外され、絶望のあまり自暴自棄となって自決する
かも知れぬ、と今村曹長が危惧したのは当然であった。
・・翌18日早朝、午前4時ぴったりに、またしても非常呼集のラッパの音が
ブキテマの山に鳴り響いた。第二大隊全員、軍装して集結せよ、の命令だった。
地上に立ち込めた朝もやの中に整列した我が第二大隊の前に、竹林地達登
(ちくりんじたつと)大隊長が仁王立ちに立った。私が密かに尊敬する白皙
長身の陸軍少佐である。彼は腰の軍刀をギラリと抜き放つと、朗々とした声で、
こう訓示した。
「日本軍破れたと言え、我が第二大隊全員は未だ無傷である。生きて虜囚の
辱めを受けず。かくなる上は、イポー北方4キロの地点において、英軍
マウントバッテン軍の来襲を阻止する。日本男児の意気地を見せるのは、
まさにこの時である。我が第二大隊の奮起を望む!」
まだ混乱の中にあって、敗戦を実感できず、自分自身の気持ちを整理できずに
いた私たちの胸中を、竹林地大隊長のこの断固たる訓示は一直線に貫いた。
ためらう暇もなく、大隊長の訓示に応じて第二大隊は、直ちに出撃の準備に
とりかかった。兵器、弾薬、食料など、トラック50台に積み終わった時である。
営庭を横切って駆け寄ってきたのは、片岡幸作部隊長であった。部隊長は
まっすぐに竹林地少佐に近寄るなり、いきなり少佐を突き飛ばした。
「貴様は8月15日、恐れ多くも陛下より賜りたる詔勅のご趣旨がわからんのか!
みだりに兵を動かしおって、とんでもない奴め!早く兵を解散させよ!」
顔面蒼白になった片岡大佐は、竹林地少佐をこぶしで殴り付けた.竹林地少佐
は無念そうにがっくりと首うな垂れていたが、部隊長の鉄拳制裁がやむと、
整列して光景を見守っていた私たちに「解散」と宣し,将校宿舎のほうへ
歩み去っていった.・・・・
将校宿舎の方角で、「ドン!」という銃声らしい音がした。不意に、ある
予感が私を打った。私は将校宿舎へ走った。・・
竹林地少佐は、左手に軍刀をもって腹一文字にかき切り、右手の拳銃で頭部を
撃ち抜いていたのだ。誠に武人としての潔い最後であった。・・・
(残された遺書には、抗命の罪は武人としてこの上なく重く、一死を持って
大罪を謝し奉る、とあったが)ところが、後日広島出身の下士官から聞いた
話では,少佐のような高級将校は、常に南方総軍の司令部に出入りしており、
戦局についても、日本国内の状況にいついても明るかった。したがって8月6日、
広島に原爆が投下され、一瞬にして広島市が壊滅させられてしまったことも
承知していた。ところで、少佐の実家は広島市の寺であり、その寺は市内の
中心地にあった。そのため,父母兄弟姉妹、家族全員が原爆によって全滅の
悲運に見舞われたことは確実であった。
その悲報に接して以来、少佐の顔に懊悩の影が深まり、今で言えばノイローゼ
気味になっていたということであった。・・
思えば自決した竹林地少佐は、私の真に畏敬する大隊長であった。剛毅である
反面、私たち兵隊の身の上にもよく心を配り、大声を上げて怒鳴り散らすだけ
が得意のあちこちの中隊長とは異なり、まさしく武人の亀鑑(かがみ)で
あった。尊敬する大隊長の自決に遭遇して、私もようやく敗戦を実感し始めて
いた。(中略)
p121 集団自決の心理
(歩兵連隊旗と昭南神社神殿に、日本軍自らの手で火が放たれた)
神社がすっかり焼け落ちて、白煙がたなびいているのを、はるか山上から見て
いた私は、大日本帝国の崩壊をはっきりと感じ取った。私だけでなく、忠霊塔
衛兵の一同は、誰もがそう感じたようであった。
「ああ、俺はもう死にたくなった」「大隊長も切腹したしなあ」「よぉし、
俺は死ぬぞっ」
誰かが言い始めると、もうそれを遮る者はなかった。歩哨掛の上等兵が大声で
叫んだ。「もう戦争は終わったんだぞ、歩哨なんかやめて、早く衛兵所へ
引き上げろ!」
衛兵司令の私以下九名全員が、ブキテマ山上の忠霊塔衛兵所に集合した。
窓からもう一度昭南神社のほうを眺めると、焼け跡からはまだ白煙が立ち
上っているのが見える。「みんなよく見ろ。この状況は、明治維新の会津
鶴ケ城と同じだ.戦争に負けた日本へオメオメ帰って、一体何ができる?
我々は、ジョホール、ブキテマで名誉の戦死を遂げた幾千の英霊を守る
名誉ある衛兵だ。この幾千の英霊の碑の下で死のう!大隊長も待っていて
くださる。ここで死ぬのは日本陸軍兵士として本懐だ。違うかっ!」
そう大声で叫んだのは、衛兵掛上等兵である。衛兵司令の私を無視しての発言
だったが、私にはもう気にならなかった。
忠霊塔衛兵は、前にも書いたように全部で九名である。自決するには、銃を
構え、二人ずつ相対して、私一人がハンパになる勘定だ。私は、一人だけ、
自分の銃で自決することに決めた。
私の命令で、全員黙々として38式歩兵銃に五発装填の実弾を込めた。安全装置
をかけた上、私を除いて全員が2列に相対して並び、互いの心臓部に銃口を
ピタリと突きつける。そして、「用意!」「撃て!」の号令で一斉に引き金を
引くのだ。
私自身はどうしたか。私に拳銃があれば、竹林地大隊長と同じように、
こめかみに銃口を当てて一発で十分である。しかし、長身の38歩兵銃では
それはできない.そこで巻き脚絆(ゲートル)を解き、編上靴も脱いだ上、
靴下もとって裸足になった。そして、銃の引き金に木の枝を差し込み、その
両端を左右両足の親指と第二指とで支え、銃口を心臓部に当てた。
こうして、自分自身の号令と同時に、両足に力を込め、グッと押さえれば、
弾丸は間違いなく私の心臓を撃ち抜いてくれるのだ。
こうして準備をしながらも、私の脳裏に浮かんだのは、やはり内地に残した
母と妻のつる、それに今は6歳になっているはずの娘の稀子(ひろこ)のこと
であった。どんなに可愛くなっているだろうと思うと、望郷の思いが胸を突き
上げてくる。しかし、その想念を、私は必死で振り払った。また思ったのは、
この場の八名の中には死にたくない者もいよう、ということであった。一時の
血気にはやって集団自決したとして、この責任は誰がとるのか?衛兵司令の私、
井手伍長はその責任を取り切れるのか?それで良いのか?しかしこの想念も、
私は無理やり追い払った。
銃の安全装置を外し、いよいよ「用意!」の号令をかけようとした時であった。
背後にカッカッと高い靴音がした。振り返ると、数メートル離れたところに
同じ部隊の田中久雄伍長が銃を肩にして立っていた。部隊衛兵司令とし上番中
らしく、その巡察にきたのであった。田中伍長は私と同年兵であるが、現役兵
で私よりずっと年も若く、勤務中隊では学科、術科、品行全てに抜きん出て
いる優秀な下士官であった。頭の回転の速さでも中隊随一の彼は、私たちの
姿を見るなり、直ちに状況を見てとったようであった。
彼の機転によって、私たち九名は辛くも死を免れるのである。
「待て、死ぬのは早い。話がある」
田中伍長は大声でいうと、まだ銃に手をかけたままの私たちのそばに足早に
近づいてきた。「なんだ、お前たち、死に急ぎおって!ただいま本部に入った
情報も知らんのだろう」
「そんなもんは知らん」自決の前に飛び込んできた田中伍長に、私はそっけなく
答えた。
「そうだろうと思った。知っておって死にいそぐ馬鹿はおらんからのう」
「じゃあ、一体どんな情報だ」
田中伍長はゆっくりと私たちを見渡しながら、もったいぶった口調で言った。
「実はのう、今入った情報によると、こうなんじゃ。我々の部隊は輜重兵に
属しておる。歩兵の第一線部隊とは異なるのだ。よって、わが部隊と同系統の
兵站部隊である野戦兵器廠、野戦貨物厰ともども、わが部隊は、第一番に内地
へ帰還できることになった。その情報がさっき入ったんじゃ」
「ウワーッ!」兵隊たちの間から歓声が上がった。同時に一同、ドカドカと
田中伍長を取り囲む。どの顔も輝いている。つい今まで死のうとしていた
ことなどすでに何処かへ消しとんでいた。誰かが咳き込んでたずねた。
「内地へ第一番に帰れるなんて本当ですか?」
「もちろんだ。俺が嘘を言うと思っているのか」
いくつかの質問におうように答えて、まもなく田中伍長は銃を肩に降りて
いった。みんなはニコニコ顔でその後ろ姿を見送った。さっき、あれほど死を
思い詰めていたのに、全く呆れるほどの変わり身の速さであった。しかし、
これが、外地においてふいに終戦を知らされ、混乱、動揺に陥った兵隊たちの
心理状態であったのだ。夕方になって,また巡察に現れた田中伍長に,私は
さっそく聞いた. 「その後、司令部の情報はどうなったか?」
「うん、大本営から近日中、北支・中支・南方各方面軍へ、天皇陛下のご名代
として、各宮殿下が差し使わされることになり。湘南島の岡総軍司令部には
閑院宮春仁殿下が来られることになったそうだ」さらに話を聞くと、あの
竹林地少佐がそうだったように、終戦に承服できない将校たちが独断で兵を
動かし、今後進駐してくる連合軍に対して戦闘を挑んだりすると、収拾の
つかない混乱状態となり、せっかくの天皇陛下の戦後の詔勅を無にしては
ならないというのであった。
のちに、私たちの部隊が真っ先に帰還できるという田中伍長の情報は、
私たちの自決を思い止まらせようとした田中伍長のウソであったことが
わかった.そのウソによって、私は死の淵から引き戻されたのであった。
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🦊
そのご、武装解除、密林での原始生活を経て、イギリス軍のチャンギー刑務所
(シンガポール)に収容され、取り調べ、飢餓地獄(朝にビスケット三枚、
午後にドロップ4粒が1日分の食事)、元住民の襲撃、技術部隊への志願
(主人公は左官業が本職)で"特別食"にありつく、・・・
突然の全員無罪放免の宣告、出所の順番を待つが、井手伍長は放免されず、
リババレー作業隊(実は捕虜強制収容所)に送り込まれ、(総人口約1万名)
種種雑多な部隊からきた兵士とともに重労働に明け暮れる。1日にレーション
1個で腹ペコだ。「私たち日本兵の捕虜を作業に使役できるのは、イギリス軍
にとって極めて有利であったろう」
空腹のあまりインド人やマレー人に物乞いして食べ残しのカレーを恵んで
もらったり、 (ただしこれは中国人には通用しなかった)また、倉庫での
荷運び作業で、衣料品を盗み出して中国商人に売ったり、「しかし、
わたしたちがこういうことをやるのは、食うためでもあったが、同時に、
意思表明でもあった」。
建築作業班でのはたらきが評価されて,食事等の待遇もよくなった.
作業所主任の若い英軍将校との友情談なども語られる.
昭和22年5月、南方からの第一次帰還船で帰国。
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“奪われたひとびと“ーー戦時下の朝鮮人ーー
塩田庄兵衛
朝日ジャーナル編 「昭和史の瞬間」 上 より 1974年 刊 朝日選書
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🦊:ここで、宗教と(あるいは個人崇拝と)教育、それに絡んだ
「ノーと言えない人間」作りの手口について知りたいとキツネは思った。
p334
ーー大正天皇は、明治天皇のおぼしめしをおうけつぎになって、
一視同仁の御いつくしみをますますおひろめになり、京城に
朝鮮神宮をお建てになって、天照大神をおまつりしてまつりごと
のもとゐをお示しになり、明治天皇をおまつりしてまつりごとの
はじめを明らかにせられて、朝鮮のまもり神になさいました。
このやうにして、皇室の御めぐみは、あまねく朝鮮に及んで、
人々は安らかな生活を営み、内鮮一帯のまごころがしだいに深くなり、
平和のもといがかためられました。
朝鮮の政治は、代々の総督が、ひたすら一視同仁のおぼしめしを
ひろめることに力をつくしたので、わずか30年ほどの間に、
たいそう進みました。したがって、世の中は穏やかになって、
産業は開発され、中でも、農業や鉱業の進みが著しく、海陸の
交通機関はそなはり、商業がにぎはひ、貿易は年ごとに発展して
ゆきました。
また、教育がひろまり、文化が進むにつれて、風俗やならはしなども、
しだいに内地とかはりないやうになり、制度もつぎつぎに改められて、
内鮮一体のすがたがそなはってゆきます。地方の政治には自治が
ひろまり、教育も内地と同じ家の名前をつけるやうになりました。
とりわけ、陸軍では、特別志願兵の制度ができて、朝鮮の人々も国防の
つとめをになひ、すでに戦争に出て勇ましい戦死をとげ、靖国神社に
まつられて、護国の神となったものもあり、氏(うじ)を称へることが
ゆるされて、内地と同じ家の名前をつけるやうになりました。ーー
(初等国史、第6学年、朝鮮総督府、昭和16年3月31日)
“開発“の名のもとに
私たち日本人は、日の丸弁当の味を知っている。いかに梅干し一つの
おかずとはいえ、とにかくそれは白米であった。・・
しかし豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)日本でも、神武以来
白米を常食としてきたわけではない。日本人が(正確にいえばその大部分
が)三度三度米を食うようになったのは、米騒動(1918年)以降のことだが、
それは殖民地朝鮮における「産米増産計画」の実施と時を同じくしている。
この計画は、はじめ1920年からの15ヵ年計画として立案され、
なかなか順調に運ばなかったが、太平洋戦争開始のころまで強行された、
朝鮮統治の重点政策であった。それが残した成果は、数字に表れている。
つまり、1912年から33年までの約20年間に、朝鮮における米の生産高は
幾らか増加しているにかかわらず、朝鮮内での消費量は絶対的に減少して
おり、一方、日本への輸出は、50万石から870万石へとめざましく増加
しており、とくに1931年以降は、全生産高の約半分が日本にはこばれている。
その結果、朝鮮人の一人当たり消費量は、年間7斗8升(約140リットル)から
4斗1升(約72リットル)へと半減しており、日本人一人当たりの半分にも
足りない。これが数字の語るところである。
米騒動で表面化した日本国内における米の不足、米価の値上がりを解消
して「低米価・低賃金」政策を維持する上で、安い朝鮮米の輸入が大いに
役立ったことは確かだが、米作りに精を出した朝鮮人は、米が食べられなく
なった。彼らには、満州(中国東北)から輸入された雑穀があてがわれた。
朝鮮人は粟をくえ、である。「産米増殖計画」とは、実は「産米取り上げ」
政策であったのだ。日本人の指導による土地改良、農業技術の向上の成果を
評価するためには、それが朝鮮人自身に何をもたらしたか見る必要がある。
同じ性質の問題に、「満州事変」以後の工業化政策がある。1930年代に、
朝鮮の工業化