死の商人が軍縮を言うか?
死の商人が軍縮を言うか?
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「死の商人」 岡倉古志郎著==1999年=新日本出版社刊
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p125==デュポンーー火薬から原水爆へ
(第一次大戦中、デュポンは、連合国が使った弾薬の40%を供給
したが、その後もアメリカの軍当局に対する軍事用爆発物の主要な
供給者であった。戦時中、デュポンの使用労働者数は、5千人から
10万人に増えた。1914年にデュポンが生産した火薬の量は、
226.5万ポンドだったが、翌1915年には連合国からの注文が
殺到し、其のため生産高は1.05億ポンドに激増した。1916年にーー
は、前年の約3倍の2.87億ポンド、さらに、1917年にアメリカが
参戦するやいなや、生産高は一層増加して、3.87億ポンドとなり、
1918年には3.99億ポンドとなった。戦争の4ケ月間にデュポンは
年平均5800余万ドルの利益をあげた。これに対し、戦前の4ヶ月間は
其の約10分の1ーー609万ドルに過ぎなかったのである。・・・
(デュポンはこれまでに何回か「スキャンダル」の対象となっているが、
其の一つが1930年の事件である)
話は少し以前に遡る。ヴェルサイユ条約が世界平和を確立すること
に失敗して以来、国際連盟は、数年間ぶっ続けで毎年のように会議を
開き、広汎な軍備縮小を実現しようと努力していた。1925年、
国際連盟は、ドイツが秘密のうちに再軍備を進めているという情報に
驚いて、第一回軍縮会議を開くことになった。この会議では、武器、
弾薬、その他軍需品の国際取引の制限の問題が取り上げられるはずで
あった。
この軍縮会議が開かれることになってから、デュポンその他の軍需会社
は、当時の商務長官での後に大統領となった共和党の領袖ハーバート・
フーヴァーからワシントンへの招請電報を受け取った。其の電報は
「来るべきジュネーヴ会議で討議されるはずの武器、弾薬、その他軍需品
の国際取引の制限に関して、商務省当局としては、関係業者の意見を聞き
たいから、準備的な討議に代表を送っていただきたい、軍縮に関する草案
は別に郵送したからご覧を願いたい。当局としては業者の利益を保証する
ことに十分留意している」というものだった。
・・・(軍需工業界の各代表は、協議の対象となった軍縮草案に対しては、
満場一致で反対したという)
ところで、ジュネーヴに派遣される政府代表の一人には、軍需局次長
ラッグルス将軍が極秘のうちに内定していた。この人事は秘密であった。
だが、ラモット・デュポンは、早くもこのことを知り、シモンズ大佐
を派してラッグルス将軍を訪ねさせた。・・・(シモンズ大佐からの
ラモット・デュポン宛の手紙には)大佐は次のように書いている。
「軍需品の国際取引に関する会議の結果について言えば、其の内容は、
我々が以前そうあるべきだと考えていたものとは、ずいぶん違っている。
それは軍需品製造業者の国際的取引にとっては、かなりの不便は
あるが、実質上、何等妨げになるものはない」。・・・
このようなことがあってのち、ジュネーヴ会議は開かれた。其の結果、
軍需資本家たちは、ある程度の制限を受けたが、にもかかわらず、それは、
軍需品の取引を全然不可能にするものではなかった.
p140「デュポンはナチを助けたか」
第二次世界大戦の末期、アメリカ議会の軍需品調査委員会は、次のような、
驚くべき事実を明るみに出した。それによると、1933年2月1日、
フェリックス・デュポンは、ジーラと称する人物と商取引上の協定を結んだ
ことになっている。このジーラという人物は、実は、本名をペーテル・
ブレンナーという国際的なスパイで、第一次世界大戦初期にはドイツの
スパイとしてドイツのためにアメリカで活躍し、1917年アメリカが参戦
するや否や、直ちにドイツとの関係を断ち、今度はデュポンの諜報員に
なったと言われる人物である。ところでこの協定の内容は、火薬と炸薬とを
ドイツ及びオランダの両国内の購入者に対して供給することにあったので
あるが、この協定の実行にあたっては、デュポンのパリ駐在代理人テイラー
およびケーンの両名が当たることになっており、当時禁止されていたドイツ
jへの軍需品輸入方法に関して、これ等の人々が秘策を練ったことが記録に
見えている。例えば、上院の軍需品調査委員会で、委員長ナイ上院議員の
質問に対して、テイラー代理人は答えているーー「オランダの河川を
遡れば、軍需品をドイツに送り込むことは、途中何の取り調べもないから、
極めて容易なことである」。・・
そればかりでなく、この契約は、ドイツ国内における火薬及び炸薬の販売に
まで及んでおり、しかも其の際、ウェルサイユ条約の規定は些かも考慮され
ていなかったという。うデュポンは其のドイツの盟友IGファルベンとの密接
な関係をも維持していた・・「デュポンとIGファルベンとは、一個の紳士
協定を結んでいた。かの協定によれば、一方は他方に新しい製造方法や
新しい製品に関して優先権を与えることになっていた」。全世界を三大
分割していたデュポン(アメリカ)、ICI(帝国化学工業ーーイギリス)、p
IGファルベン(ドイツ)の3大化学トラストは、戦時中も何とかして緊密な
友好関係を保とうとしたばかりでなく、戦後も、どちら側が勝ち、あるいは
負けるにかかわらず、戦前の友好関係を回復しようと考えていたようで
ある。・・・
これはまさに「売国的」であり、「スキャンダル」であろう。だが、
デュポン自身は無論、この事実を徹頭徹尾否認している。・・
p143ーー「1年1ドルで国家に奉仕」
それはさておき、デュポンと第二次世界大戦との深い関係は、原子爆弾の
生産を除外しては、考えられないであろう。
「マンハッタン計画」(原子爆弾生産計画)が密かに計画された頃、この
計画の中心人物レスリー・グローブス中尉は、ウィルミントンへやって
きて、デュポンの首脳陣に、彼の計画の輪郭を打ち明け、デュポンの協力を
求めた。(中略)
(軍部がデュポンに目をつけた理由は、1️⃣これまで独自のシステムを構築
することに慣れている。2️⃣。また、極めて多方面的、包括的な機能をもつ。
3️⃣。爆発物に関しても豊富な経験を持っている。4。陸軍省はデュポンを良
く知り抜いており長い年月にわたって親しい関係を保ってきている。
(ジョン・ガンサーによる)
こういう理由から、陸軍省は、真っ先にデュポンに白羽の矢を立てたの
だった。だが、これに対して、デュポンは、最初あまり乗り気でなかったと
言われる。「自分たちは化学者であって、物理学者ではない」と言うのが
デュポンの答えだった。しかし、結局、デュポンは条件付きで
「マンハッタン計画」に参加することになった。其の条件とは、
1️⃣この計画につき、特許権申請をしないこと、2️⃣
計画を引き受ける手数料は年額1ドルに留めること、であった。全く
素晴らしい条件である。デュポンほど立派な、損得を無視した「愛国者」は
どこにもないように思われた。「ア・ダラー・ア・イアマン(1年1ドルの
男)と言う言葉は、ここから生まれたのだが、この言葉が軍需資本家、「
「死の商人」の別名として使われるのは、デュポンにしてみればまさに、
けしからぬことであろう。
デュポンは、シカゴ大学の監督の元に、まずテネシー州クリントン、つまり
オークリッジの付近に試験工場を建設し、ついで、ワシントン州
ハンフォードに3..5億ドルの巨費を使ってハンフォード・プルトニウム工場を
i建設した。「これまで世界で企てられたもののうち、最も大規模な、また
最も困難な工業企業は、こうして実現されたのである。 最も、これ等の巨額
の費用はデュポンが自腹を切ったわけではない。全て国費である。
p145==「原水爆時代」
戦争は終わった。だが、アメリカの「死の商人」の前には、新しい分野が
開けた。それは、核兵器生産の分野である。
1946年に「原子力法」が制定され、この法に基づいて「原子力委員会」
(AEC)と言う国家機関が創設された。1947年1月、AECは陸軍から
「マンハッタン計画」を受け継いだ。引き継ぎの際明らかになったことは、
過去7年間に原爆生産投下された経費が22億ドルの巨額に達していたと言う
ことである。その後、冷たい戦争」が展開されるに及んで、原子力予算
委員会は、まず年額10億ドル台に、ついで20億ドルを超えた。・・
原子力産業は、「死の商人」にとっては、最も素晴らしい活動分野であっ
た。何しろ、其の規模がどえらく大きい。年額20億ドルもの巨費が建設や
運営のためにばら撒かれる。其の設備はといえば、USスティール、
ジェネラル・モータース、フォード、クライスラーの4つの巨大会社を
合わせたよりも大きく、数十万の技術者、労働者を擁している。ところで、
この土地、建物、機械などの固定設備は無論、AEC,つまり国家が賄うが、
其の建設、運営はデュポンだとか、ユニオン・カーバイド(ロックフェラー
財閥系)や、ジェネラル・エレクトリック(GE)(モルガン財閥系)のよう
な巨大企業に任せられる。建設、運営を引き受ける会社は自社製品を優先的
に売り込み、据え付ける特権があり、また、運営の代償として「生産費
(コスト)プラス手数料」の原則で、AECに請求し支払いをうけるが、この
「手数料」は純然たる利潤だとAEC担当者さえ認めている。
このほか、運営にあたっていれば、科学技術上の機密が自然入手できるが、
これ等の機密は、将来原子力産業が民間に解放される場合には、ごっそり
いただくことができる。
「死の商人」にとって、こんなボロ儲けの分野がかつてあったであろうか。・・・
原子力産業は「死の商人」にとってこのように魅力的なものであったから、
其の獅子の分け前をめぐる「死の商人」の角逐、競争は激烈を極めた。
デュポンは「マンハッタン計画」では、原子力産業に先鞭をつけたが、
戦後モルガン財閥の激しい食い込みに遭って一時は苦杯をなめた。
モルガン系のGEはハンフォードのプルトニウム工場の経営権をデュポンから
奪取したからである。だがデュポンに再び春が巡ってくる日がやってきた。
1950年1月31日、トルーマン大統領は、アメリカの原爆所有独占を
打ち破ったソ連に目にもの見せようと水爆製造命令を下した。其の年の
8月2日、AECはデュポン・ド・ヌムール会社に水爆製造工場の設計、建設、
運営を任せる決定を行なったのである。
デュポンの引き受けたこの水爆工場「アメリカ南部のサウス・カロライナ州
のサヴァンナ・リヴァー・プラント」は、同州アイケン、バーンウェル両郡
にまたがる25万エーカーの広大な土地に実に10億ドルの巨費を投じて作られ
たものである。こうして作られた水爆が1954年3月1日、ビキニで爆発
する
p170==恐竜は死滅させられるか
一人の馬鹿が道端に立って、槍や火縄銃を肩に担いだ
一隊の軍勢が行進してくるのを見ていた。兵隊がすぐ
そばを通りかかった時、馬鹿は尋ねた。ーー
馬鹿ーー「皆さんは一体、どこからおいでですか?
兵隊ーー「平和からだ」
馬鹿ーー「どこへゆくのですか?」
兵隊ーー「戦争へさ」
馬鹿ーー「戦争で何をするんですか?」
兵隊ーー「敵を殺したり、敵の町を焼いたりするんだ」
馬鹿ーー「なぜ、そんなことをするんです」
兵隊ーー「平和をもたらすためにさ」
馬鹿ーー「はて、おかしなこともある。平和から
やってきて、戦争に行く、それも平和を
作るためにだと。なぜ、はじめの平和に
止まっていないんだろう?」
ーーーーーーー(中部高地ドイツの伝承寓話)ーー
p173==生きている恐竜
第二次世界大戦がたけなわな1943年5月、アメリカの
評論家ウイリアム・アレン・ホワイトは、「有力な大会社がユニオン・
カーバイド(ロックフェラー財閥系)や、ジェネラル・エレクトリック
(GE)(モルガン財閥系)のような巨大企業に任せられる。建設、運営を
引き受ける会社は自社製品を優先的に売り込み、据え付ける特権があり、
また、運営の代償として「生産費(コスト)プラス手数料」の原則で、
AECに請求し支払いを受けるが、この「手数料」は純然たる利潤だとAEC
担当者さえ認めている。このほか、運営にあたっていれば、科学技術上の
機密が自然入手できるが、これ等の機密は、将来原子力産業が民間に解放
される場合には、ごっそりいただくことができる。
「死の商人」にとって、こんなボロ儲けの分野がかつてあったであろう
か。・・・
これ等の軍需工業独占体の国際的
結合は、ものすごい力を持ち、しかも、一片の同義心も
持ち合わせぬ恐るべき恐竜、怪竜の類である彼らは、この
巨大な爬虫類がはるか昔死に絶えたと信じられている現代
でも、なお、キリスト教文明の上にのしかかり、我が物顔で
世界を徘徊している」。
ホワイトが、「死の商人」を「生きている恐竜」、「生きて
いる怪竜」に例えたのは、まことに適切だと言わねばならぬ。
確かに、これ等の恐竜、怪竜は、まだ現代に生きており、其の
恐ろしい赤い舌の先から、絶えず戦争の脅威を吐き出している
のである。・・
これ等の恐竜や怪竜は、古くは普仏戦争、近くは第一次世界
大戦、さらには第二次世界大戦にかけて、ずっと猛威を
たくましくしてきた。我々が十分警戒を払わないならば、
彼らは、第三次世界大戦をさえ引き起こすかもしれない。・・・
(🦊これら死の商人の生態は、ほぼ次のようである。
1️⃣彼らには祖国というものがあるようで無い。祖国とか隣人愛
とかいうものは無用の長物、何よりも大切なのは利潤である。
2️⃣死の商人同士の間には極めて緊密な国際的結合があり、それは
互いの競争や弱肉強食によって妨げられるものでは無い。
3️⃣彼らにとっての最大の敵は、本当の意味での平和である。
なぜならば、彼らの生命を維持するのに不可欠な血液は、戦争
ないし戦争準備だからである。
4️⃣彼らはこれまでのところ「不死身」であった。彼らの国家が
う 戦争で敗れようと、彼らは戦争で荒れた廃墟の中からフェニックス
のように、いつでも蘇生してきている。クルップやIGファルベン、
日本の財閥などの「死の商人」の歴史は、以上のことを裏書き
しているようである)
p175 「死の商人退治論」
だが、この恐竜、怪竜の正体は、時代が進むにつれて人々の目の
前に、明らかにならないわけにはいかなかった。平和と正義を
愛する人々は、「死の商人」を攻撃し始めた。
それでは、「死の商人」を退治すべきであるとする人々は、
具体的には、どんな方法を考えていたのだろうか。
あるy人々はこう言った「軍需工業を国有化ないし国営化するのが
一番だ。なぜなら、こうすれば,戦争の大きな原因となっている
国際的な武器の販売を制限できるからだ、と。
だが、例えばヒトラー治下のナチス・ドイツや1930〜40年代の
日本では、軍需工業も、名目上国家統制のもとに置かれていた
はずなのに、そこでIGファルベン、また財閥が何をやったかという
事実に照らしてみれば、国有や国家統制が問題を根本的に解決
しなかったことがわかる。問題は、誰が国有化の主体になるかに
よって決まるのである。「死の商人」が主体である限り、彼らが
自分の手で自分の息の根を止めるはずはない。
またある人は言った。ーー国際管理が最もいい方法である、と。
この思想も古くからある。例えば、1890年のブラッセル会議は
アフリカへの武器の輸出を禁止した。だが、これは、完全に失敗した。
其の証拠に、1896年、エチオピアは、有名なアドワの戦いで
イタリア軍を破ったが、このエチオピア軍の武器は、仏領ソマリーランド
を通じて密輸入された英仏製の武器だったのである。また、第一次
世界大戦後に国際連盟がやろうとした武器、軍需品の移動の国際管理
がやはり同様な苦い経験を踏んでいる。
では、なぜこのようなやり方がうまくいかなかったのか。
「死の商人」が其の代弁者を通じて猛烈に圧力をかけてきたからである。
次に其の一例を挙げてみよう。
(1930年、米、英、日三国は、海軍軍備制限条約に調印した。
当時のアメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは、上院にこの条約の
批准を求めたが、突如、猛烈な反対運動が起こった。運動の主力
「海軍連盟」は、「この条約は、アメリカの安全保障を窮地に
陥れる」として、猛烈な反対運動を繰り広げた。
この「海軍連盟」の実態は何だったか。表面上は、軍縮反対論者、
大海軍必要論者の個人的なグループのような外見を呈していた。
だが、クロード・タヴェナー議員が議会で公表した調査の結果に
よると、この連盟の発起人には、18名の人物と1つの会社がなって
おり、其の会社というのは、政府が2000万ドルの装甲板を購入
したことのあるミッドヴェイル鉄鋼会社であり、個人の発起人の
中には、装甲板その他の軍需品を作っているベスレヘム・スティールの社長チャールズ・シュワップ,海軍からの大量注文で巨大な利益を
あげているUSスティールのJ・P・モルガン、砲弾の生産に必要な
ニッケルを独占しているインタナショナル・ニッケルのR・M・
トムプスン、前海軍長官で退職後カーネギー・スティールの顧問
となったB・F・トレイシーなどが名を連ねていた。つまり、
「死の商人」たちが「海軍連盟」を作り、これを通じて、軍縮に
反対したわけである。
P178==「死の商人」は反駆する。
時代が進むにつれて、「死の商人」に対する非難の声は、次第に
大きくなってきた。これは、「死の商人」にとっては、見のがす
ことのできぬことである。なぜならば、彼らは自分の本質を見破ら
れることを極度に恐れるからである。だから、彼らは、自分の息の
かかっている新聞、雑誌、ラジオなどを通じて、本当の平和の擁護者
たちを徹底的にやっつけようとする。其の場合、「死の商人」たちは、
いかにも、自分たちだけが「愛国者」であり、自分たちに敵対する者は
「売国奴」、「妄想狂」、「空想家」、「赤」であると、口を極めて
非難するのである。彼等「死の商人」たちは、反対者たちが彼らを
「極悪非道の悪漢と呼び、世界平和に挑戦し、戦争を誘発する、科学や
技術の進歩を人類の幸福のためではなく、人類の破壊のために利用する
非人道的、反社会的な輩だ」と非難するのに対して、どう答えた
だろうか。
「自分たちは悪漢でも何でもない、自分は単に実業家としての慣行に
したがって取引をしているだけだ。たまたま、自分が武器を取引する
ためにとんだ非難を受けるが、自分たちと乗用車のセールスマンと一体
どこが違うのだ」。・・
あるイギリスの「死の商人」はこう言った。ーー「住宅建築会社では、
盛んに結婚を奨励する運動を行っている。それはたくさんの新夫婦が
できれば、それだけ住宅の需要が生ずることになり、会社は儲かる
からだ。我々が戦争をそそのかしたり、戦争を歓迎するのも、全く同じ
理屈なのだ」と。言いも言ったりである。彼はまた、こう言うーー
「我々が戦争の責任者だというのは、とんだ濡れ衣である。軍需工業が
戦争を生むのではなくて、逆に戦争の「体制」自体が軍需工業を発展
させるのではないか。国際的紛争の最後の手段として戦争行為を正当化
している現代の文明社会そのものこそ、戦争の究極の責任者なのだ。
現に、戦争をしでかす当事者は、我々ではなくて、政府であり、議会
ではないのか」。さらに、彼は、一歩進めて、次のように開き直るのであるーー
「一体、宣戦布告する権限は誰の手の中にあるのだ。世界のほとんど
全ての国々の憲法は、宣戦布告の大権を政府ないし議会に与えている
ではないか。我々を非難するのなら、なぜこういう憲法そのものを
非難しないのか。それにまた、政府自身が、ナショナリズム、
ショーヴィニズム、経済対立、領土的野心、軍国主義などを煽って
いないと言えようか。してみると、これ等の要因と我々と比較した場合、
どちらが、戦争に対する権限を多く持っているだろうか」。
これはこれなりに筋の通った議論である。だが、クルップやIG
ファルベンが、どの様にうまうまとヒトラーをたらし込み、ナチス・
ドイツ政府を侵略戦争の道具に仕立てたかは、我々が既に知った
通りである。
この様な議論は、巧みに組み立てられた詭弁でしかない。
資本主義社会では、「死の商人」と政府、議会は相対立する
別の存在ではない。特に現代では、「死の商人」、つまり
独占資本は、国家機構を自分の道具として駆使しているに
おいておやである。
「死の商人」はまた、別の詭弁を使う。
それは、自分こそが「平和の友」であるかの様に装うことである。
デユポンは、「全世界が戦争に反対するならば、これほど
満足なことはない」と言った。この様な言葉は、果たして、
「死の商人」たちの本音であろうか。
彼らが内心で絶えず要求している「戦争」は、彼らの論理では、
まさに「平和」そのものから導き出される。其のことは、
この章の初めに引用した中部高地ドイツの寓話が、いみじくも
指摘している通りだ。彼らが好んで用いる論理は、「平和は
戦争準備によってのみ確保される」、「安全保障は武力の
裏付けなしにはありえない」というのである。この論理は
第一次、第二次両世界大戦前にも好んで用いられたし、
現在では「力による平和」「軍縮のための軍備」などの新装を
凝らして再登場している。
また、大量殺戮兵器を作り出すこと自身が、其の大量殺戮の
脅威によって戦争をなくす結果を生むのだ、と彼らは主張する。
例えば、次の様なエピソードはどうだろう。
1892年に、「ダイナマイト王」アルフレッド・ノーベルは、
平和運動に従事していた貧乏な作家(「武器を捨てよ」の作者)
べルタ・フォン・ズットナーに確信を持ってこう語ったのである。
「私のダイナマイト工場は、多分、あなたがたの運動よりも、
ずっと早く戦争を絶滅させるでしょう。というのは、
対抗する両軍が1秒間に全滅させられる様な爆発物ができたら、
y文明国民は、きっと軍隊を解散するに違いないから・・・」
だが、ノーベルのダイナマイトより数十、数百万倍も強力な
原子爆弾が生まれ、さらに、其の何百倍もの破壊力を持つ
水素爆弾ができても、ノーベルの予想は実現しなかった。
逆に、「死の商人」たちはノーベルの論理を「核抑止力」
などという現代的な表現で再生し、巨額のドルを汲み出す源泉
にしているのである。
p182==恐竜の死滅
k では、この様な怪物を退治することは、果たして不可能な
ことだろうか。
戦争と其の原因とを根絶し恒久平和を確立したいという
人類の熱望は夢でしかないのであろうか。
オットー・レーマン・ルスピュルト教授は、今から70年も前に書いたーー
私は、自分が全然悲観的だという印象を与えることは望んで
いない。なぜかと言えば、私は、前方に横たわる膨大な任務を
見て、意気が挫けたわけではないからだ。私たちは、このこと
に関連して、次のことを 思い出すべきである。ーー食人、
奴隷制、農奴制、拷問などの野蛮な慣行は 絶滅させられた。
しかも、最初これらに反対した人々は馬鹿だとか、犯罪者
だとか言われて蔑まれ迫害されたにもかかわらず、これ等の
野蛮な慣行はついに廃止されたのである。この事実を想起
すべきである」。
また、これまでたびたび引き合いに出したエンゲルブレヒト
博士は、第二次世界大戦前に次の様に言っていた・・・
「空は、再び、低く垂れ込めた戦雲で曇り、黙示録の4騎士は、
またも馬にまたがり、破壊と死とを後に残すべく疾駆し始め
ようとしている。だが、戦争は人間が作り出すものであり、
同時に、平和も、もしそれが到来するとすれば、やはり、
人間の手で作り出されるものである。だから、戦争及び
軍備を作り出すものの挑戦に対して、良識ある人々、
目覚めた人々は、断じてこの挑戦を避けてはならぬことは
確かである」。
これ等の良心的な学者たちが言ったことは正しい。それは、
現在でも妥当性を持っている。確かに、戦争は人間がつくる
ものである。人間が作るものならば作らぬ様にすることも
できるはずである。だから、エンゲルブレヒト博士が、
「死の商人」の挑戦に応えて立ち上がり、戦争の息の根を
止め、平和を自分の手で作りだせ、と訴えたのは正しいと
言わねばならぬ。「死の商人」はむろん、こういう
「不逞の輩」を「馬鹿」だとか「赤」だとか、「犯罪人」
だとかいうであろう。しかし、其の「馬鹿」や「犯罪人」
が数千人も、数億人もおり、しかも組織されているならば、
また、「馬鹿呼ばわり」や「犯罪人呼ばわり」にもめげず、
断固として行動するならば、まさに、平和は、これらの
「馬鹿」や「犯罪人」、つまり人民が作り出すのである。
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軍国主義は死なない
軍国主義は死なない。第二次大戦が終わって、心から
戦争嫌いになったはずの日本人が、この頃にわかに
戦争好きになったかと思うほどだ。軍事予算拡張したって、
自力で勝てるなんて思ってないだろ。親分が戦争したいなら、
基地を提供して、勝馬に乗りたい、それだけ。ばかだねー。
軍国主義は死なない
軍国主義は死なない
「戦争は嫌いだ。誰にとっても良いことは無い」という人も(もちろんキツネ
も)、 結局戦争を止めることはできない。自衛戦争は必要だ。例えば
中国人による歴史書
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九・一八事変史」ー中国側から見た満州事変ーー易顕 他・
1986年 新時代社刊
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によれば、 「日本軍国主義の発達史は、ほかでもなく、対外軍事戦略の遂行
と、惨酷な略奪の 歴史 でもあった。日本の歩む道は、「軍事大国」ーー
「政治大国」ーー「経済大国」 の三部曲であった。日本帝国主義によって
引起こされた九・一八事変 (1931年9月18日、 柳条湖事件)の勃発は、
ただ其の侵略過程における段取りの 一つに過ぎなかったのである。 日本
軍国主義は・・極めて早くから、欧米に対しては屈従し、中国、朝鮮に対し
ては 侵略拡張するという一筋の軍国主義路線を確定していた。其の日本も、
もともと立ち 遅れた 封9「建国家の一つであって、かつては迫られて、
やむなく西欧列強と、多くの 不平等条約に 調印していた。そして明治維新後
は、これらの条約は、日本資本主義の 発展を非常に阻害するところのものと
なった。しかし西欧列強の力量が強大なため、日本は相当長期間、黙って
耐え 忍び、あえて力で対抗しようとしなかった。
これに 反し、中国に対しては一貫して一歩一歩緊迫した侵略拡張の政策を
取り続けたので あった。其の原因は、中国が軟弱で与しやすかったからであ
る。九・一八事変前の 中国は、その国民経済全体の中で、立ち遅れた小農
経済が90%を占め、工業経済は 10%にも至らなかった。こういう中国に比較
して日本の経済的実力は、多くの点で 勝っていた。当時、日本の工業生産額
は工農総生産額中63%を占め、うち、 重工業は工業の38・2%を占め、
1929年の鉄鋼生産量は110万トン、石炭生産量は 3440万トンであった。
このほかにも、当時の中国は、軍閥の連年の混戦で戦乱に明け暮れ、国民は
安んじて 生活できず、国力は皆内戦で消耗し、国防は全く無に等しい状態に
置かれていた。 帝国主義の侵略拡張は止まるところがなく、侵略を受けた
国家と民族の唯一の出路は、 団結して抗戦すること、特に武装して抵抗する
こと以外にはなかった。・・中国が 日本の侵略に反抗するのは、正義の戦争
であり、正義の戦争は、よく人民大衆の支持と 国際的援助を得ることができ
るのである。・・ しかし、九・一八事変前夜において、蒋介石によって固執
された絶対的不抵抗主義は 実際には投降主義であって、其の影響するところ
は極めて悪く、其の弊害は極めて 大きかった。・・ 日本侵略軍は我が東北を
侵略すると得意満面、有頂天になり、戦って勝たざるはなく、 攻めて落ち
ざるはなく、天下無敵の精鋭であると自らを吹聴した。・・ 日本の軍国主義
分子は、なぜこうも高慢になったのか。それは、蒋介石の絶対的 不抵抗主義
の 遵守によって、日本軍に「ほとんど骨を折らずに易々と東北4省を 手に
入れさせてしまった」ことになり、これゆえに日本軍は尊大ぶることになっ
た のである。」・・ 当時、もし米、英、仏などの諸国が、集団で侵略者の
政策に身を挺して抵抗し、 堅く戦争抑止の決意をするならば、日本軍国主義
の騒々しい気焔もこれを収斂させる ことが可能であったのであり・・・
(しかし、米、英、仏がこのような消極的な態度をとった理由の一つは、
諸国が 揃って、日本 帝国主義が北上して社会主義国家のソ連に侵攻すること
を希望したこと にある。「狡猾な日本帝国主義もまた其の思惑に迎合し、
やかましく反ソ反共を騒ぎ 立て、力を尽くして北上bし、ソ連に侵攻する風
を装った」)
p330 「九・一八事変勃発後、中国共産党は全国人民の正義の要求
代表して, 決然、日本帝国主義の侵略行動に反対するとともに、国民党
不抵抗政策と 国連依存政策の罪悪を暴露した。9月20日、中国共産党中央は
日本共産党中央と 連合して、日本帝国主義の中国侵略に反対する宣言
を発表した。そして其の同じ日に、 中華ソビエト共和国中央工農革命委員会
も満州事変についての宣言を発表、次の ように指摘した。
『九・一八事変は、「日本帝国主義が早くから予定していた計画」 であっ
て、「これは中国民族を屈服させ、其の強度の脅かしと抑圧と搾取の下に、
自己の利潤を増加し、自己の満蒙華北の統治を強化し、自己の国内における
経済危機を 解決し、さらに一歩進めて、東北に覇を争う帝国主義大戦の準備
を成すものである。』 宣言はさらに言及して、「日本帝国主義の満蒙が強奪
反対」「満蒙占領の陸海空軍 即時撤退」 「一切の不平等条約の自発的解消」
帝国主義国民党のソビエト地区と紅軍への攻撃 反対」などのスローガン
を掲げ、全中国の被圧迫民族に、中国工農民主政府の指導下 で、徹底的に
日本帝国主義に抗戦する道を明らかに示したのである。
※※※※※※※※※※※※**********************
🦊そういうわけで、中国共産党と其の軍隊は、救国のカリスマであり、
それ無くしては、息もできないほどの「酵素」みたいなものである らしい。
ーー共産湯で産湯を使うわけだ。 学校では、日本鬼子(リーベン・クイツ)
が中国で何をやったか、 詳しく教え、反帝国主義、反軍国主義、反差別主義
を学習させる。 だけど、今の共産主義中国がいくら民主、民主と詐称して
も、どう 見ても民主主義じゃない。帝国主義、(一党)独裁主義だがなあ
ー。 軍事予算膨大、少数民族差別、一国二制度のウソ、そこはどう子ども
たちに教えるのかねー。 アメリカはどうか?長いこと民主主義のご本家
みたいに尊敬されて きたが、ここへきて、なんだか大統領と其の取り巻き、
其の支持者 たちの「総取り支配」、国民との対話なし、国家機密でがんじが
らめの 軍国主義国家となったらしい。そして銃社会だ。国会は確かにある、
が、 力が弱い。それも民主主義の特徴だから仕方がないって?大半の国民が
何かにひどく怯えているらしい。彼らは絨毯爆撃の恐怖も体験していない、
遠くの戦争で多くの若者たちが死んだ。 けれどもなお、侵入者や人種テロ
や、遠くの軍国主義国家をとても恐ろし がっている。だから「昔の栄光を
アメリカに取り戻す!」なんてスローガン には弱い。「原爆は平和への
導火線?」だと思ってる。変なの。 軍事予算は膨大、軍産複合体は栄えて
る。軍国主義は間違いない。 コロナは中国製の細菌兵器だから中国が悪い!
と政治家がいう。で、 街頭で日本人ミュージシャンが殺された。
「チャイニーズ」と間違え られたらしい。人種差別は大昔からあったが、
今になって大手を振って 表面に出てきたようだ。民主主義は民主主義だが
「総取り民主主義」で 対話拒否だから、其の先は下手をするとファッショ
政治だ。明治、 昭和期の日本みたいな。 さて、日本だが、これは全て
アメリカ次第。それに加えて、国会は形 ばかりで機能しない明治期の政治、
政策、それと連動した経済マフィア (資本家と 政治家を取りまく学者連と
マスコミ)の繁栄を願う数多くの国民。今も昔もナチス政治学の真似っこを
してる、(つまり法を都合の いいように「総合的俯瞰的に」ねじ曲げ解釈、
作り替える)情けない政党. 何より、これから先の近未来の姿も描けない
政治家達.日本はアメリカの 植民地だっけ?やだねー・・・・
🦊ポストコロナーー国家主義と個人主義(または民主主義)の 殴り合い(
漱石曰く)は続く? 核廃絶は待ったなしの賭け事で、どっち側に賽の目が
出るか、 吉か凶か、生か死か、といった瀬戸際にある。生と死の間を取り持
つ なんてことはできないのだ。ことの起こりは。核が途方もない金儲け、
国威発揚、未来への幻想、不満の吐口、として大活躍し始めたからだ。 原水
協の言い分 「アメリカは戦争に備えて核実験を行い、ソ連は平和を保障する
ために 核実験しているのだ」(ヒロシマより)
日本政府の言い分 「アメリカは平和を保障するために核兵器を開発し、
中国は核戦争を 準備して世界制覇を目論んでいるのだ」ーーこの手の妄言が
幅を利かせ ている。 👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓
朝日新聞===2020年11月1日===「日曜に想う」より
曾我豪編集員 👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓
<明治40年、(1907)だから日露戦争の翌々年、時の西園寺公望 首相は、
文人を招き「雨声会」を催した。・・・ 招待された二十人の文人のうち、
二葉亭四迷、坪内逍遙、夏目漱石 は断った。漱石は断りの葉書に一句添え
た。 「ほととぎす=厠半ばに出かねたり」 多忙が本当の理由だったのか。
漱石はその後も西園寺の招きに応じず、 それは20回に及んだのである。
(中略) 菅義偉首相は就任早々、日本学術会議が推薦した6人を任命しなか
った。 討論は両極端に割れる。・・・ 漱石は、「権力を使用」するには
「付属している義務」を心得るべき だとし、「危機に臨んで国家の安否を
考えないものは一人もいないと 断じる。国家主義と個人主義の2つは『いつ
でも撲殺し合う』などと いう厄介なものでは万々ないと私は信じている」と
語るのだ。 だが本意は其の先の警鐘だろう。 「日本が今滅亡の憂き目にあう
とかいう国柄でない以上は、そう国家 国家と騒ぎまわる必要はない」「国家
の平穏な時には、徳義心の高い 個人主義にやはり重きを置く方が、私には
どうしても当然と思われます」 政治を前に進めるのは、分断ではなく包摂
である。PKO(国連平和 維持活動)協力法と周辺事態法、有事法制の、
平成の3つの法整備は皆、 野党の訴えをいれて、国会承認など修正がなり、
今日の世論の支持と 定着につながったのではないか。・・・ 国会も政権に
対する肯定と否定の両極端に分かれ、冷静に善後策を探る 中庸の論は霞む。
相手に混乱の責任を負わせて譲らぬ分断状況こそが、 安倍晋三前政権時代
から続く「負の遺産」に違いない。(中略) 恐るべきは、両極端化によっ
て、言論が政治にもたらす善の力を失う ことだと思う。熟考を基に、時代の
最適解と守るべき価値の優先順位を 探り当てる穏当な文化の力である。
それ無くしてポストコロナの時代が 開けようか。漱石の訴えは今日も有用で
あろう。> ********************************************************** * **************** 🦊漱石の言や良し。「国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義に重きを
置く方が、私にはどうしても当然と思われます」
2024 11 10
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普通のひとびとーーホロコーストと第101警察予備隊ーー
クリストファー・R・ブラウン著 ちくま文芸文庫 刊
谷喬夫訳 (増補版) 👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓 and
普通のひとびとーーホロコーストと第101警察予備隊
. 「普通の人びと」出版に到る研究。
p14 <私はシュトゥットガルト
近郊にあるルートヴィヒスブルグの街を 訪れた。そこには州司法本部、
さらにナチ犯罪の追求を統合する連邦共和国 の 本部が置かれていた。わたし
は、ポーランドのユダヤ人に対して犯されたナチ犯罪 の、ほとんど全ての
ドイツ国内裁判の起訴状や判決の膨大な収集を余すところなく 読破して
いったが、そこで初めて、ドイツ通常警察の一部隊である第101警察
予備大隊に関する起訴状に出会ったのである。 わたしはホロコーストに
関する 公文書や裁判記録をほぼ20年にわたって研究 してきたが、この
第101 警察大隊に関する起訴状ほど圧倒的な、心をかき乱さ れる衝撃を
受けたもの はなかった。(中略) この起訴状は、隊員に対する公判前尋問
からの膨大な 逐語的引用を含んでおり、 読み進めると、裁判がきわめて
豊富 な証言に基づ いていたことが、ただちに判明 した。その上、多くの
証言は 誠実で率直で あるとの「感触」を与えてくれた。 そうした裁判記録
で しばしば出会う、 弁明的でアリバイを求めて苦しむ、虚偽の 証言は 目立
って 少なかったので ある。 第101警察予備大隊に対する取り調べと 法的
訴追は、ハンブルクの 連邦 検察庁によって指揮され、10年に及ぶ
(1962〜 1972)長期 訴追で あった。(中略) 第101警察予備
大隊の名簿は研究者に利用可能で あった。隊員の殆ど は ハンブルク出身で
あり、その多くは調査時点で まだ生存していたから、 わたしは、 1942年
6月にポーランドに送られた 500人弱の部隊員の うち210人の 尋問
調書について研究することができ た。 正規軍に吸収 された「警察予備軍」
は未来の将校を訓練する場として、 小さいとは ない役割を果たしたので
ある。(1936年にドイツ警察 長官に 任命され た)ハインリヒ・
ヒムラーは、多種多様な警察組織を2つの 部門に分け、 其の本部をベルリン
に置いた。ラインハルト・ハイドリヒの 指揮する 保安 警察は、体制の政治
的敵対者と戦う秘密国家警察 (ゲシュタポ)と 非政治的 犯罪と戦うことを 基本とする刑事警察(Kripo) とからなる。第二の 警察 部門が、クルト・
ダリューゲの指揮する通常警察で ある。ダリューゲは、 都市や 街の防衛
警察(Schupo)や、警備隊 Gendarmarie)に相当する 警官、さらに小さな 町
や村の自治体警官の 管理も委ねられていた。 1938年までに、
ダリューゲは 6万2千人以上の 警官を管轄下に置いた。 (そのうちおよそ
9000人が 「警察訓練部隊」 に集められた) 1938,39年には、
戦争の脅威が増大したことに よって、以後の人員 補充に 拍車がかかった。
通常警察は急速に膨張した。 通常警察に採用されれ ば、新規採用の 若い
警察官は国防軍に徴集されること を免除されたので ある。それだけでなく、
警察大隊はーーアメリカ合衆国の 州兵のようにーー 地域ごとに組織されて
いたから、 隊員になることは、正規 の軍務に代わる 努めを、より安全に
しかも生家のそばで 終えるように保証 されていると思わ れていたので
ある。(中略) 1942年から1943年までの第101警察 予備大隊が
駐屯していた ルブリン 管区において、親衛隊、警察指揮官に任命 されたのは
ヒムラーの 旧友オデロ・ グロボクニクであった。彼は残忍な やくざ者で、
かつて オーストリアで汚職によって 党幹部の地位を追われた男 だった。
かくして、 ルブリン管区の警察部隊が命令を 受け取る場合、官 ダリューゲや
ベルリンの 本部からクラクフの通常警察司令官、 そして管区の 通常警察
指揮官、
(もう ひとつは)ヒムラーから親衛隊、=警察高級指揮 官すなわ
ち グロボクニク を通してであった。通常警察が最終的解決 (ホロコース
ト)に 参加する上 で、決定的に重要だったのは後者の命令 系統で あった。
p77第101警察予備大隊のポーランド派遣
1940年5月、訓練期間終了後、第101警察予備大隊は ハンブルグから
ヴァルテガウへ、すなわち編入地域として第三帝国に併合された 4つの
西部 ポーランド地区の一つへと派遣された。6月下旬まではポズナニに、
その後 はウッチに駐屯して、大隊は5ヶ月の間「移住作戦」を展開した。
新たに 併合された地域を「ゲルマン化」しようという、すなわち「人種的に
純血 の」 ドイツ人を植民させようという、ヒトラーやヒムラーの人口統計
学 的な 計画の 一環として、すべての好ましからぬ連中ーーユダヤ人やロマ人
(以前 の言い方に よればジプシー)ーーは、併合地域からポーランド中央
へ と排除 されなければ ならなかった。その代わり、ドイツとソビエト連邦
の間 の合意 に従って、ソビエト 領内に住んでいるドイツ系の人びとはドイツ
側に 送還 され、追放されたポーランド人 のアパートや、無人化した農場に
移住 する ことになっていた。 ヒトラーとヒムラーは合併地域の「人種的
浄化」 を熱望 したが、それは決して達成 されたわけではない。しかし、
数十万人 が、人種的に再編成されたヨーロッパ というヒトラーとヒムラーの
幻想の 追求のため、チェスの駒のように動かされたの である。(中略)
p79 招集された警察予備官ブルーノ・プロプストの証言
『土着の民を 移住させる作戦に従事して、主に小さな村々で、私は初めて
殺戮を 体験しま した。それはいつも次のようでした。我々が村に到着する
と、すでに そこに は移住委員会が出来ていました。・・・いわゆる移住委員
会は、黒い制服の 親衛隊と保安部(SD)員、さらに民間人から成り立って
いました。委員会 から我々は 数字の記されたカードを受け取りました。
村内 の家々には、 カードと同じ数字が 貼られていました。受け取った
カード は、 我々が立ち 退かせなければならない 家の番号だったのです。
初期には、 それ が老人で あれ、病人であれ、小さな子供 であろうと、我々
はすべての 人を 家から 連れだそうとしました。移住委員会はすぐに、
我々 のやり方が 誤って いる ことに気付きました。彼らは、我々が老人や
病人と いう 厄介な荷物に係わり あう ことに 反対しました。正確にいえば、
移住 委員会は最初から 我々に、 老人や 病人を その場で射殺してしまえと
命令を 下したわけではありません。 彼らは むしろ、そうした連中は不要で
あること を我々に分からせることで 満足した のです。私の記憶している
2つのケース では、老人や病人は集合 場所で射殺 され ました。第一の
ケースでは老人 が、第二のケースでは老女 が・・・ どちらの場合も 兵士に
よってでは なく、下士官によって射殺され ました。』
p82 1941年10月中旬から1942年2月下旬までに、59回に
及 ぶ 移送によって、5万3000人以上のユダヤ人、5000人のロマ人が
第三帝国から 「東部へ」と、この場合はウッチ、リガ、コヴノ、ミンスクへ
と運ばれていった。 コヴノへの5回の移送、またリガへの最初の移送に
おい ては、到着と同時に虐殺が なされた。それ以外の移送の場合、ただちに
「抹殺」とはならなかった。追放された 者たちは初めはウッチ(そこには
5000人のオーストリアのロマ人が送られた)、 ミンスク、リガの
ゲットーに監禁されたのであった。 到着してただちに虐殺されなかった移送
のうち、4回はハンブルクから出発した。 最初の移送は1034人の ユダヤ
人で、1941年10月25日にウッチに向かって 出発した。(中略)
第101警察予備大隊のある隊員は、ユダヤ人が列車に乗せられる駅を
警護 した。 また他の隊員はハンブルグからの移送の内少なくとも3回は
列車護送 の役も 果たした。
p84 11月8日のミンスクへの移送に同行 したブルーノ・プロプストの
証言
「ハンブルクでは当時、ユダヤ人に対し て、東部の全く新しい入植地域 に
配属される のだと説明されていました。 ユダヤ人たちは通常の客車に 乗せ
られました。・・・ 諸々の道具, シャベル,斧,等々,それに沢山の 台所
用品を積んだ2両の貨車 が連結され ました。護送部隊用に二等客車も 連結
されました。ユダヤ人を乗せた 車両 自体には警護兵は配属されません でし
た。列車の両側は、停車駅でのみ 警護 されたのです。約4日間の旅を して、
我々はミンスクへ着きました。我々は まさにこの旅の途中で、つまり 列車が
ワルシャワを通過してから、初めて 行く先を 聞かされたのでした。
ミンスク では、親衛隊特殊部隊が我々の 移送列車を待ち受けて いました。
再び警護兵 なしで,ユダヤ人たちは待機 していたトラックに乗せられ まし
た。ユダヤ人 がハンブルグから持ち出す のを唯一許されていたバッグだけ
は、 列車の後部 に残されねばなりません でした。ユダヤ人たちには、荷物
は後から来る と 説明されました。その後、 我々の部隊は、現役(すなわち
予備 でない) ドイツ 警察大隊の泊まって いたロシア人の兵舎に車で連れて
ゆかれ ました。 その近くには ユダヤ人 収容所がありました。・・・ ここに
泊まっていた警察 大隊員との話で、 我々 は、数週間前にこの大隊が すでに
ミンスクのユダヤ人 を射殺したことを知り ました。この事実から、 我々は
ハンブルクからの ユダヤ人も同様に射殺 される ことになっているの だと
いう結論を下しまし た。』 ユダヤ人虐殺に 巻き込まれたくなかったので、
護送部隊指揮官 ハルトヴィッ ヒ・ グナーデ 少尉は宿舎に留まらなかった。
彼と彼の部下は 駅にとって返 し、ミンスク発 の夜行列車を掴まえたので
ある。 ハンブルク からリガへの 護送任務に ついては、資料となる記述が
ない。しかし、 デュッセルドルフ からリガ への、12月11日のユダヤ人
移送を通常警察が 護送した 経緯に ついて は、ザリッター報告があり、
それ はデュッセルドルフ の警官も、 ハンブルク の警官がミンスクで知った
のと 同じことをリガで知っ たという ことの 証拠 となっている。
p85 ザリッターの報告
『リガの 住民はおよそ36万人で、そのうちの3万5000人がユダヤ人
で す。 ビジネスの世界ではユダヤ人はどこでも勢力を持っていました。
しかし ドイツ軍が 侵入した後で、ユダヤ人の企業はただちに閉鎖され、
没収され ました。ユダヤ人 たちは有刺鉄線で封鎖されたゲットーに閉じ込め
られ ました。その当時、労働に 従事していた2500人の男性ユダヤ人
だけがゲットーにいると言われていました。 他のユダヤ人はどこかの同じ
ような職場に送られたか、ラトヴィア人によって射殺 されてしまったの
です。・・
ラトヴィア人はとりわけユダヤ人を憎んでいます。 戦争によって開放されて
から現在まで、ラトヴィア人はこうした寄生虫の除去に 充分な役割を果たし
てきました。しかしながら、私が特にラトヴィアの鉄道員から 聞くことが
できたように、なぜドイツ人がドイツ国内のユダヤ人を、ドイツで抹殺 して
しまわないでラトヴィアに連れてくるのか、ラトヴィア人には理解できない
のであります。』
p86 1942年6月、第101予備大隊は、ポーランドで別の護送
任務を 割り当てられた。 (大隊は三中隊に別れ、それぞれの隊は、定員を
満たした場合、およそ140人で あった) 大隊はヴィルヘルム・トラップ
少佐の指揮下にあった。少佐は53歳で、第一次世界大戦で戦った経歴が
あり、その功績によって一等鉄十字章を授けられていた。 大戦後、彼は
職業 警察官となり、次第に階級を登っていった。
トラップは1932年 12月に ナチ党に加入しており、「党の古参闘士と
見なされて いたが、 決して親衛隊 に受け入れられてこなかったし、官職に
見合う親衛隊の階級 さえ与えられて こなかった。ヒムラーとハイドリヒは
彼らが創出した親衛隊 並びに 警察の 帝国において、国家と党の構成要素を
意図的に統合し、絡みあ わせようと してきたという事実があるにもかかわら
ず、彼は明らかに親衛 隊的な 人物 とは見なされていなかった.彼はすぐ
に、若き親衛隊隊員で あった2人 の 大尉と 衝突することになった。彼らは
20年位上経ってから 行われた証言 に おいても、 大隊指揮官への侮蔑を
まったく隠そうとしなか った。彼らに よれば、少佐は性格が 軟弱で、 軍人
らしくなく部下の将校の 任務にあまり に 干渉しすぎるのであった。
(中略)
(この二人の警察 大尉、ホフマンとヴォーラウフは)年長のトラップとは
対照的に よく訓練 された職業警察将校であり、若い頃からのナチズムの
熱狂 的支持者、 ヒムラーとハイドリヒが親衛隊ならびに警察官の理想とした
ような青年親衛 隊員 であって、まさしくこうした特徴を一身に代表していた
のである。 (中略) 大隊には7名の予備役将校がいた。彼らはホフマンや
ヴォーラウフのような 職業警官ではなく、通常警察に招集されてから、 将校
訓練を受けるように選ばれた のである。彼らの年齢は33歳から48歳 まで
である。 5人がナチ党員であるが、誰も親衛隊には属していない。 兵士に
ついていえば、大多数はハンブルグ地域の出身である。約63%は 労働者
階級に属しているが、(多くはハンブルグの労働者階級すなわち ドック
労働者、 トラック運転手、倉庫や建設関係労働者、機械助手、船員、 などで
あり)熟練 労働者はほとんど居なかった。平均年齢は39歳で あり、 この年
齢の集団は軍務に つくには年をとりすぎていると考えられた が、 1939
年9月以後、警察予備隊 勤務のためにもっとも多く徴兵された ので あっ
た。 勿論彼らの年齢からして、全員がナチ体制以前の時代に青少年 期を 過ご
していた。 隊員たちはナチ時代のものとは違う政治的基準や道徳的 規範 を
知っていた人びと であった。大多数の者がハンブルク出身であり、
ハンブルクは世評によれば、 ドイツで最もナチ化の度合いの少ない都市の
一つであった。しかもその多くは (以前には社会党や共産党を支持して
い た)反ナチであった社会階級の出なので ある。これらのひとびとが、
ユダヤ 人のいない世界というナチの人種的ユートピアの ために、大量殺戮者
を募る のに好都合なグループであったとは到底思えないのである。
p103 ユゼフフの大虐殺ーーうユダヤ人絶滅計画(ラインハルト 作戦)への道
1942年7月、親衛隊=警察指揮官オディロン・グロボクニクは、
トラップ少佐 と連絡をとり)ビウゴライの東南東30キロメートルにある
ユゼフフの村の 1800人のユダヤ人を狩り集めるように伝えた。しかし な
がら今回は、ほとんの ユダヤ人は再定住の予定ではなかった。労働可能 な
年齢のユダヤ人男性だけが、 ルブリンにあるグロボクニク支配下の収容所 に
送られることにになっていた。 女性や子供、老人はその場でかまわず射殺
されることになっていた。 大虐殺が明日にも実施されることを耳にして、
ブッフマン(第一中隊所属第一小隊 指揮官)は、ハーゲン中尉に、
ハンブルク のビジネスマンでありかつ予備役少尉 として、自分は「そうした
行動に、 すなわち無防備な女子供を射殺するような行動に 決して参加したく
ない」 と訴えた。そして別の仕事を命じてくれるように頼んだ のである。
ハーゲン 中尉はブッフマンを、選別された男性「労働ユダヤ人」を ルブリン
へ連れて ゆく護送責任者に配置した。第一中隊長ヴォーラウフは、
ブッフマン が別の 任務につくことを知らされたが、その理由は知らされなか
った。 兵士たち は、大隊全体が参加する主要行動のために、朝早く起こされ
ると いうこと 以外には公式には知らされていなかった。しかし少なくとも
幾人か は、 明日起こる ことについてヒントを得ていた。ヴォーラウフ大尉
は 部下 たちに 明日「飛び抜けて 興味深い任務」がお前たちを待っていると
話し た のであ る。留守中の兵舎警護の ために残ることになった兵士が不満
を口に した とき、彼の所属する中隊の指揮官は こう述べた。「一緒に来な
くて よく て 幸せだぜ。さもなきゃ何が起こるか見なけりゃ ならん」
ハインリヒ・ シュタインメッツ軍曹は第二中隊所属第三小隊の部下に 向かっ
て、「俺は 臆病者なんか見たくないからな」と警告していた。 ビウゴライを
午前2時頃 に出発して、トラック部隊はちょうど空が白み始めた頃 ユゼフフ
に到着し た。トラップは部下を半円形に集合させ、話を始めた。大隊に
与えられた 殺戮の仕事を説明した後で、彼は部下を驚かせるような提案を
した。 この 任務を遂行する力が無いと感じる年長者はだれでも、任務から
外れることが できるというのである。トラップが話を中断し、数秒してか
ら、第三中隊の オットー・ユリウス・シムケが前に進み出た。ホフマン大尉
は自分の中隊の 一人が 逃げ腰となって列を乱したことに激怒した。(彼は
ビウゴライでの 将校会議に出席 していなかった)ホフマンはシムケを叱責し
始めたが、 トラップが割って入って それをやめさせた。トラップがシムケを
かばった の を見て取ると、10人から 12人の者が同時に進み出た。彼ら
はライフル 銃 を返却し、少佐から次の仕事を 待つように言い渡された。
それから トラップ は中隊指揮官を招集し、それぞれに果たすべき任務を割り
当て た・・その 命令によれば、第三中隊の2つの小隊はユゼフフの村を取り
囲む ことに なっていた。隊員は、逃げようとする者は誰でも射殺するように
と はっきり 命令 された。他の大隊兵士たちはユダヤ人を狩り集め、市場に
連れ てくる事 になった。 市場まで歩けないほどの病人や、虚弱者、幼児、
また 抵抗しよう としたり隠れようと した者はその場で射殺されねばならな
かっ た。その後、 第一中隊の少数のものは 市場で選別された「労働ユダヤ
人 (後に絶滅収容所 送りになる)」を護送する任務に つくが、残りの
第一中隊 兵士は、銃殺部隊 を編成するために森へ向かうことになって
いた。第二中隊 と第三中隊所属 第三小隊の任務はユダヤ人を大隊のトラック
に乗せる こと で あり、それは 市場と森の間を往復することになっていた。
仕事の割り当 てが 終わると、 トラップはその日一日を村の中心部で過ごし
た。・・ しかし彼は森自体には 行かなかったし、処刑に立ち会おうともしな
かった。 トラップが森の処刑場 に行かないことは、大隊員の注目を集めた。
『トラップ少佐は 森に現れ ませんでした。その代わり彼はユゼフフ村に
留まったのです。伝えられる ところでは、彼はその光景を正視することが
出来なかったからです。少佐が 姿を 見せないことを知って、我々兵士は
狼狽 しました。俺達だってこれには 耐えられ ないんだぜ、と皆が言った
もので す』・・ ある警官は市場で、 トラップが胸に手を当てながらこう言う
の を 聞いていた 『おお神よ、なぜ 私にこうした命令が下されたのでしょ
う』 他の 警官は 『トラップ少佐が、 部屋の中を手を後ろに組んで行ったり
来 たり歩き まわり、 私に話かける姿を 思い浮かべることが出来ます。
「ああ君。・・・ こんな仕事は 俺には向いて いない。でも、命令は命令
なんだ。」』また 別の警官は、最後に 部屋のなか で一人ぼっちで、トラップ
が椅子に座って 激しく泣いていた姿を はっきりと 回想している。(中略)
p110 第一中隊が講習を受け、森に出発してから、トラップの副官
ハーゲンは、 「労働用ユダヤ人」の選抜を指揮した。近所の製材工場の社長
は、彼のところで 働いているユダヤ人25人のリストを持ってすでに
トラップと交渉し、トラップは 25人を釈放することを認めていた。
ハーゲンは屈強な男性労働者を求めていると 呼びかけた。約300人の
労働者が家族から分けられたとき、集められたユダヤ人 たちの間に不安が
広まった。労働ユダヤ人がユゼフフを出てゆく前に、森からの 最初の銃声が
聞こえてきた。『最初の一斉射撃が聞こえた後で、行進中だった職人 たちの
間で深刻な動揺が生まれた。そして幾人かは大地に身を投げ出して泣き始め
ました。・・彼らはこの時点で、背後に残してきた家族が射殺されるのだと
いうことをはっきり知ったに違いありません』。 ブッフマン少尉と第一中隊
のルクセンブルク出身の隊員は、ユダヤ人労働者を 数キロメートル離れた
鉄道駅へ行進させていった。ユダヤ人労働者と警備隊は 列車でルブリンに
運ばれ、そこでブッフマンは彼らを収容所に引き渡した。・・ それから
トラップは中隊指揮官を招集し、それぞれに果たすべき任務を割り 当てた。
・・その命令によれば、第三中隊の2つの小隊はユゼフフの村を 取り囲む
ことに なっていた。隊員は、逃げようとする者は誰でも射殺するよ うにと
はっきり命令 された。他の大隊兵士たちはユダヤ人を狩り集め、市場に
連れ てくる事になった。 市場まで歩けないほどの病人や、虚弱者、幼児、
また 抵抗しようとしたり隠れようと した者はその場で射殺されねばならなか
っ た。その後、第一中隊の少数のものは 市場で選別された「労働ユダヤ人
(後に絶滅収容所送りjになる)」を護送する任務に つくが、残りの第一中隊
兵士は、銃殺部隊を編成するために森へ向かうことになって いた。第二中隊
と第三中隊所属第三小隊の任務はユダヤ人を大隊のトラックに乗せる こと
で あり、それは市場と森の間を往復することになっていた。 仕事の割り当て
が 終わると、トラップはその日一日を村の中心部で過ごした。・・ しかし
彼 は 森自体には行かなかったし、処刑に立ち会おうともしなかった。
トラップ が 森の処刑場に行かないことは、大隊員の注目を集めた。
『トラップ少佐は 森に現れませんでした。その代わり彼はユゼフフ村に
留まったのです。 伝え られる ところでは、彼はその光景を正視することが
出来なかったから です。 少佐が姿を 見せないことを知って、我々兵士は
狼狽 しました。俺達 だって これには耐えられ ないんだぜ、と皆が言った
もので す』・・ ある警官 は 市場で、トラップが胸に手を当てながらこう
言うのを 聞いていた 『おお神 よ、なぜ私にこうした命令が下されたの
でしょう』他の 警官は 『 少佐が、 部屋の中を手を後ろに組んで行ったり
来たり歩き まわり、 私に話か ける姿 を思い浮かべることが出来ます。
「ああ君。・・・ こんな仕事は 俺に は向い ていない。でも、命令は命令
なんだ。」』また別の 警官は、最後に 部屋の なかで一人ぼっちで、
トラップが椅子に座って激しく 泣いていた姿を はっきりと回想している。
(中略)
さてユゼフフ に話を戻すと、カマー上級曹長は第一中隊の最初の射撃分隊
ユゼフフから 数キロメートル離れた森に連れていった。分隊を乗せた
トラックは 森の堺に そって続いている泥道で停車した。そこから森の奥へ
の の奥への小道が通じ て いた。警備隊員はそこで待機した。35人から
40人 のユダヤ人を乗せた 最初の トラックが到着すると、ユダヤ人と同数
の警官が 前に進み出た。 そして正面から 向い合って犠牲者と組を作った。
カマーの 先導で、警官と ユダヤ人は森への小道を行進しながら下っていっ
た。 彼らは ヴォーラウフ 大尉の指示する地点で道を外れ、森の中に入って
いった。 ヴォーラウフ大尉 は一日中、処刑の場所を選ぶ仕事で忙しかったの
である。 それからカマーは ユダヤ人たちに、一列になってその場に伏せる
ように 命じた。警官たちは 背後から彼らに近づき、先ほど教えられたとおり
に 肩甲骨の上の背骨に ライフルの銃剣をあてた。そしてカマーの命令と共に
一斉に引き金を 絞った。 *****************************※※※※
🦊 陰惨な物語はさらに続く。警官たちは「命令には絶対服従」と、 「仲間
からの、卑怯者のレッテル」を恐れて、次第に最初の人間らしさを 失って
ゆく。彼らのうち、生きて帰った者は、戦争体験の封印に成功して 戦功故に
上級職に上り詰めた者もいる。昨今のウクライナ紛争をきっかけに 他民族
排斥の声がまたしても大きくなり、右翼政党が勢いづいてきたとか。
一方、現在のユダヤ人国家がアラブ人排斥を表に出して、民間人殲滅作戦 に
出ている?・・・・キツネにはどうにも理解不能。
2024 11
秋の実
秋は葉も実も鮮やかに「咲き誇る」
日本人は特に鮮やかな紅葉を喜ぶ。だが、
今年は黄色の柏の葉と見えたものが、
猛暑で枯れた葉っぱだったと言う、笑えない
事態だ。紅葉もいずれ枯葉になるとは言え、
他の野草も、花はちらほら、だからタネも少なく、
同様に消えて行くように見える。日本の秋から
野の花が消えるとは。日本列島熱帯化か、やれやれ……
円の侵略史
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円の侵略史 島崎久彌著 日本経済評論社=1980年刊 ーー円為替本位制度の形成過程ーー 👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓
🦊キツネは経済音痴であるから、(偉そうに言わなくても)
この手の
専門書
には歯が立たない。大体「侵略史」かと思うと、
どうやら、「我が国 植民地 銀行群の形成過程」が本旨である
らしい。単行本430ページに及ぶが、 読み にくいということは
全く無い。ただ、こちらに経済の知識がゼロという こと で、
別に初心者向きの解説本をつまみ食いしつつ、著者には申し訳
ないが、 「侵略史」部分だけをまとめてみたが、他にそのような
研究は少ないらし い。 島崎久彌・・1953年東大法学部卒。
東京銀行勤務を経て、関東学院 大学 経済学部教授
「はしがき」より 「本書は、1878年の第一銀行の韓国への
進出に端を 発し、太平洋戦争下における『大東亜金融圏』の
形成に
至る我が国の 植民地、金融、通貨政策の軌跡を 鳥瞰すると
ともに、それの矛盾が深化して いく過程を実証的に分析しようと
した ものである。」
「序」より 「家永三郎教授が指摘されたように、太平洋戦争は、
満州事変 以来の一連不可分 の連続行為であり、通貨、金融面に
おいても、満洲中央 銀行の創設を契機として 達成されるに至った
満洲の幣制統一は、その後の 対華北金融工作から大東亜金融圏 の
形成に至る一連の円系通貨圏形成過程の 橋頭堡をなすものであった。
しかしながら 満洲中央銀行の創設は、それに 先立つ『鮮満金融
一体化』構想の副産物であり、 それの原点は、さらに 1878年に
おける第一銀行の韓国進出に遡ることができる のである。 しかも
そのような一連の対外金融侵略のプロセスは、純然たる政治的な
事由に基づくものとは考えることができないのであり、経済的な動因は、
政治的な モチベーションと交錯し、渾然として政治と一体をなしていた
のである. そのような観点から本書では、満州事変の勃発する以前の時代に
遡りながら、大東亜金融圏の形成に至るまでの我が国対外金融、通貨侵略の
過程を考察してみることにした。
p5 我が国植民地銀行群の形成 (
(台湾銀行は、1899年8月に創設された)「台湾銀行の創設目的は、
1897年の 台湾銀行法に掲げる如く、『台湾の金融機関として商工業 竝び
に公共事業に資金を 融通し、台湾の富源を開発し経済上の発展を図り、
なお進みて営業の範囲を南清地方 及び南洋諸島に拡張し、これらの諸国の
商業貿易の機関となり以って目的となす。 (中略) 又台湾は我が本土と遠く
隔離せるが故に経済上同島の独立を計るは最必要 に して、一朝事あるに
当たりても能く経済上の独立を維持し得べき方策を 施策するを 要す。又台湾
に於いては、内外の貨幣雑然流通し、幣制殆ど 紊乱の極に達せるを 以って、
台湾銀行をして弊制整理の任にあてしめんと す』るにあった。 元々台湾
銀行は2つの顔を持っており、一つが台湾島内の 金融機関としての役割で
あったとするならば、今一つは外国為替銀行として の機能であった。 台銀
は、単なる台湾の中央銀行として兌換券の発行や幣制 の整理、あるいは国庫
事業を取り扱うだけではなくて、産業資金の供給と 政府事業の経営を支援す
ると ともに、手形割引、勧業担保貸付、不動産抵当 貸付等の多様な業務を
営むことが 可能であり、いうなれば『日本銀行、 勧業銀行、工業銀行の職務
を一身に兼併』 していたとも言えるのである。」
🦊この記事によれば、「なお進みて南清、南洋諸島』に拡張し、とある か
ら、 いわゆる「南進」は、軍部の暴走なんかではなくて、最初から大東亜
共栄圏構想 に組み込まれていたのがわかる。その構想を牛耳っていたのが
どのような資本家、 政治家たちなのか、この本はあまり出てこない。
p21 台湾の幣制整理
「一人台湾だけではなくて、我が国が帝国主義的な海外進出を試みるに
当た って、 直面した金融面における最大の問題は現地における幣制の統一
で あり、 華興商業銀行券の発行や、太平洋戦争下における現地通貨表示軍票
の 導入を除き、 ほぼ一貫して踏襲された政策は、日本と同一の貨幣制度を
現地 に移植することに よって、単一の円系通貨圏を形成し、それを拡大
しようと したことであった。」 「ちなみに1895年以前の台湾における
幣制は、 その当時の清国と同じく紊乱 を極めており、元を計算単位として
いても、 現実に流通する貨幣は、百数十種類 にも達していた。それらは
馬蹄銀 (官鋳と私鋳があり、巨額の金銭取引に使われて いた)、銀貨(清国
各省の 官鋳の制銭及び北京官鋳の葉銭ならびに民間で私鋳 された私銭の3種
類が あった)に大別された。紙幣は殆ど発行されていなかった。 それら各種
の 貨幣の中で最も流通性に優れていたのは、メキシコ銀貨などの外国 銀貨
と、 香港、広東などから流入した銀貨であった。日本の一円銀貨も対岸の
中国 本土から流入していたが、日本政府が軍事費の支払いにあてるため、
多額の 日本銀行兌換券(金又は銀と交換できる日銀発行の紙幣)、一円銀貨
及び 補助貨幣 を持ち込んだため、 通貨の混乱は、さらに一段と増幅され
た。 台湾銀行券は、当初から日本銀行券を発行準備としなかったのが特色
で あり、発行に あたっては、同額の金銀貨及び地金銀を必要とするなど、
厳格 な規定を設けると ともに、総督府も銀行券の使用を住民に諭告した。
しかし ながら台湾では、銀行券の 使用に馴染みが薄く、加えて北清事変など
の政治 的な不安が頻発したために、銀行券 の流通は順調ではなかった。
さらには 1902年から1904年にかけて金銀比価の 変動が激化するに
伴って投機 が発生し、内地との交易や台湾の財政などにも多大の 支障を
きたすに至っ た。ついには島内の銀行までが投機的な操作を実施し、台銀も
巨額の損失を 被ったため、台銀は「金銀較差勘定」を設けて損失が発生した
場合の 補填を 図るほか、貸出や預金の制限を断行した。その様な非常手段を
こうじたにも かかわらず、台銀は損失を防止することができなかったため、
金銀の法定 比は価の廃止 を求めようとしたが、台北商工相談会などは、これ
に対して 猛烈な反対を行っ た。・・ 台湾が台湾銀行法の改正によって
金本位制に 移行したのは、1906年2月のことで あり、銀貨の引換期限は
1909年の 4月、銀券の引換期限はその年の3月末日と 定められた。台湾に
おける金本位 制度の導入は、三井物産、鈴木商店、湯浅商店など 内地資本
の台湾進出を 促すことになり、それに対応して台銀券の保証発行限度も、
1000万円に引き上げられた。のちに台銀の内地向貸出と預金の残高は、
第一次世界大戦中に、島内のそれを凌駕したが、台銀は鈴木商店の機関銀行
と化し、 (大震災後貸出の過半を占める鈴木商店の事業、投機資金需要に
応ずるため、 コール・マネーに依存し、震災手形により延命を図った)
鈴木商店の破綻と共に、 一時休業を余儀なくされるに至った。次に台銀の
今一つの側面である為替銀行としての側面を一瞥してみることにするが、
台銀は創設の当初から「帝国南進策」の起点であり、「南門の關鍵」と
目されていた のである。一例として、「為替及荷為替業務」は、台銀法
第5 条第二に掲げるところで あったが、時の民生長官後藤新平は、台湾の
通商 貿易関係を、1️⃣内地との関係、 2️⃣南洋諸島との関係、3️⃣対岸との関係
に分 け、「これらの内t最も重要にして急務なるは 対岸との通商」であると
考えて いた。その当時の児玉総督の台湾統治とは、要するに 対岸経営に
ほかならな かったのであり、児玉がそれの第一弾として提唱したのは、
台湾銀行の廈門 支店設置であった。その後台銀は、香港、福州、汕頭、
広東、上海に 支店を 設けたほか、さらには進んで長江沿岸の華中の要地に
漸次営業所を開設し た。 これら台銀の華南、南方への進出は、第二代頭取
柳生一義の英断英断に よるものであり、 当時上海は、正金の領分とされて
いたために、総理や大蔵 大臣にまで工作を行った が、時の総理大臣桂太郎
からは「度々上海までだぞ よ」と念を押されとのことで ある。
又1905年には廈門において銀票、 その翌年には福州において支払手形 を
発行したほか、取引の不便を除く ため、円銀の流通に努力した。日本が廃貨
した 一円銀貨を華南や シンガポールにおいて、引き続き使用させるため、
台銀にその 任務を遂行 させようとしたのである。・・ ちなみに大正期に
おける台銀の対中国投資 残高は、1916年(大正7年)に、 5千800億円
を記録したが、それの 原資としては、預金部資金に依存しただけでなく、
華南の支店において、 退職官吏等の資産家を対象とする利付定期預金を発行
した。 さらには 1916年から1918年にかけて信託預金を開発し、
第一次世界大戦中に 蓄積された内地資本を吸引して、華南と南方に対する
投資活動を積極的に 展開し た。それと並行して台銀は、1899年の神戸支店
開設を皮切りとして、 大阪、東京、 横浜、門司に営業所を開設すると共に、
大阪支店を中心として 輸出組合を結成して、 中小商工業者の貿易を振興し
た。台銀が外国為替業務 金為替本位制度の原理に立脚して、衛星国の準備
資産として機能するだけで なく、圏内通貨の価値基準となるとともに、決済
手段としても使用される ことになったのである。・・大東亜金融圏の構成図
は、相互に経済的な補完 制を欠如するとともに、我が国の金準備と物資供給
力の不足に基づく、 円の振替性事実上の喪失などに伴って、東京中心の総合
精算制度も、所詮は 画餅に帰するの他はなかったのである。 大東亜金融圏の
総合生産制度は制度的に極めて不完全であり、盟主国を もって任ずる日本も
それを維持し、発展させるだけの経済力を具備して いなかったのである。
いなむしろ我が国は、大東亜金融圏の共存と共栄を 謳いながらも、その実は
飢餓的な戦争を遂行する間に、現地のインフレと 荒廃を代償として、資源と
資本の略奪を、豺狼の如くに、飽くことなく 追求し続けたのである。 一例と
して、次のようなあるビルマのt知識人の証言は、大東亜金融圏の 実相が、
いかに腐敗と汚辱に満ちたものであったかを、赤裸々に物語る ものと言えよ
う。 「日本の船は、武器と軍需品と酒と慰安婦の他には何一つとして、この
国に 持ち込むことがなかった。軍の用を達したのは、寄生虫のような
ブローカー と日本の軍部と商社に寄生していたもの達であった。。物資の
供給は急激に 減少し、そのために夢のような値段が支払われた。際限のない
軍票の散布に よって、彼ら(ニュー・オーダー・ブローカーと呼ばれて
いた)は、一包み のタバコに数百ルピーを支払い、その食事に数千ルピーを
使った。・・・ それに愛人を囲っていた・・・彼らの奉仕する山師と戦時
利得者は、 巨額の資金を物と金に投資し、買い占めを行うとともに、土地の
上に あぐらをかいて太っていった。 それに対して多くのビルマ人は、うなぎ
上りに値上がりする劣悪な食料事情 下で、栄養失調に陥っていった。」
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戦争とロジステイクス
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戦争とロジステイクスー石津朋之著
日本経済出版 2024年
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🦊 第二次世界大戦における日本軍の所業を、「よその国もやってた」
からと正当化する、あるいは無かったことにしたい、そういう学者や
政治家が今だに居るということが、信じがたい。そこで、改めてこの本に
よって、第二次世界大戦と戦時ロジスティクスtの関係を学び直してみたい。
p53 「略奪戦争の時代」
イスラエルの歴史家マーチン・クレフェルトの主著「増補新版 補給戦」に
よれば、中世ヨーロッパ世界の戦争では、基本的に侵攻した地域を「略奪」
することによってのみ軍隊は維持され得た。だが、略奪を基、礎とする中世
の軍事ロジスティクスのありかたは、フランス革命以後、19世紀ヨーロッパ
の「新たな戦争」を賄うには問題が多すぎた。この時期、現地調達を徹底
することによって戦いの規模と範囲を劇的に変えたナポレオンの戦争で
さえ、(🦊 当ブログのどこかに書いたが、ナポレオンがエルバ島を脱出して
パリへと行軍した時に通過したアルプス沿いの村々は、のちにナポレオン
街道と呼んで、観光名所となっているが、実はナポレオンを歓迎しなかっ
た。なぜなら、それは略奪街道であり、通過地点の村々は酷い目にあった
からだ。
ナポレオン軍は、兵士の食糧、装備、果ては鉄砲の弾に至るまで現地調達に
徹し、猛スピードで進んだ。市長は市の鍵を差し出して、何とか手加減して
くれるよう、歓迎のフリをしたのではなかろうか)ヨーロッパ中世の
ロジスティクスの問題は、必要な物質を「略奪」することで解決が図られ
た。その後、こうした略奪の歴史が第一次世界大戦を契機として消滅した
のは、戦争が突如として「人道的」なものに変化したからではない。
クレフェルトによれば、戦争での物資の消費量が膨大になった結果、もはや
軍隊はその所要を現地調達
あるいは徴発することが不可能になったからである。また当時の軍隊の特徴
として、第一に、糧食を得るために常に移動し続けることが必要絶対条件で
あり、
第二に、ロジステイクスのための基地との関係をあまり考える必要が
無かったこと、
第三に、物資運搬のための河川を支配することが必須の時代で、補給物資を
陸路で
運搬する必要があまり無かったことが挙げられる・・
「17世紀ヨーロッパの軍隊は、地上を侵食しながら進んでゆく[ウジ虫]の
ような存在であった。後には、飢餓と破壊という足跡が残された」のであ
る。
「リチャード・ホームズ、ジョン・
キーガン、ジョン・ガウ[戦いの
世界史ー~1万年の軍人たち」大木毅 監訳、2014年 原書房)より)
p58 プロイセンーードイツ鉄道の登場
クレフェルトの指摘によれば、普仏戦争においてプロイセン軍が勝利した
のは、鉄道の役割が大きかったためではなく、実際に鉄道が重要な役割を
果たしたのは、当初の兵力展開の際だけであり、ロジスティクスの面では、
プロイセン軍が用いた弾薬は、当初から大部分が携行されており、作戦での
消費量が極めて少なかったから、結局のところ、フランスがヨーロッパで
最も豊かな農業国であり、戦争が最も条件の良い時期に開始されたからこそ
実現可能になったと言える。
もちろんその一方で、戦争に将来の方向性を示したものが鉄道であり、
従来の城壁あるいは城砦では無かったことも事実であろう。
p103 ノルマンディーへの道ー~事前の周到な計画と準備
この上陸作戦を成功に導いた様々な要因について考えてみよう。
技術力ーーノルマンディー上陸作戦に際して連合軍は、兵器はもとより、
弾薬や車輌などの必要数を細かく計算し、これらを集積、さらにはこれらを
目的地まで輸送するための大規模なシステムを作り上げることに成功した。
まさに、[システムエンジニアリング]
の勝利であった。
また、オペレーションズリサーチの手法が上陸作戦計画の 立案に用いられた
という。また、通常型の戦車が海岸では全く使えないとの苦い経験から、
イギリス陸軍のパーシー・ホバートにより水陸両用戦車、地雷処理戦車、
火炎放射戦車などの特殊戦車が開発された。
ロジスティクスーー
15万もの戦力を、海を越えて敵地に上陸させるために必要とされる
ロジスティクスの側面の準備の難しさは、容易に想像できるであろう。
当時、兵士一人につき1日当たり爆弾96発、糧食3キロ、水9リットルが
必要とされた。
(以下はNHK BS[ノルマンデイ上陸作戦]による) つまり、毎月1トンもの
補給物資が必要であり、また兵士が1メートル進むごとに18名の支援チー
が必要であるとされた。
これには、炊事係や衛生係なども含まれている。更に前線の部隊は200日毎
にその全員を入れ替える必要もあった。こうして結局、計1800万トンもの
物資がアメリカから大西洋を越えて輸送されたとされる。
こうしたロジステイクス面での必要性の結果、ノルマンデイ上陸作戦の
実施に祭してはドイツ占領下フランスの港湾を占領することに加えて、
2つの人工桟橋(マルベリー)の建造が不可欠とされた。この埠頭は、それぞれ
一度に75隻の艦船の接岸が可能であったとされる。マルベリーは既に
上陸作戦の半年前からイギリスで建造が始まっていた。
同国からは輸送船に乗せることなく、曳航して運んだ。
p105 上陸作戦に向けた最終調整
1943年には作戦の実施が決定され、支援部隊を含めて約25万、約7000隻の
艦艇が参加予定であった。そこではこの技術的可能性、戦力を集中させる
方策、用いられる戦略や戦術、ロジスティクスをめぐる問題など、大きな
問題が待ち構えていたのである。
例えば、ノルマンディ地方の海は潮の干満の差が大きい。海岸線は長いもの
の、断崖がp多い。また、同地方には大規模な港湾が存在しない。それでも
他の地方と比較検討された結果、いわば消去法でノルマンディが選ばれた。
他の候補地は、潮の流れが更に激しいか、あるいはドイツ軍の防御が強固で
あったためである。連合国側はノルマンデイの地形などについて小型潜水艦
による沿岸調査を行うとともに、航空写真を活用した。
またドイツ軍部隊の動向などについては、フランス国内のレジスタンス組織
からインテリジェンス(情報)を得ていた。加えて、二重スパイの活動も記録
lされている。また、ベルリンからう東京へと発せられる日本の外交暗号
通信、さらには日本陸海軍の暗号通信の解読にも成功していたため、
ここでもドイツ軍の意図は連合国側に筒抜けであった。(中略)
p105 周到な計画
ノルマンディー上陸作戦に際して連合国軍は、第一に、ドイツ軍が上陸地点
を特定できないよう徹底して策を講じた。(爆撃地点をあちこちに散らして、
目標を気取られぬようにした。第二に、上陸作戦に先立って連合国空軍
および航空部隊によって実施された徹底した爆撃。これによって、ドイツ8
空軍をほぼ無力化することに成功すると共に鉄道や橋梁など交通システムに
対する爆撃の結果、ドイツ軍の予備部隊の移動を困難にし、最前線への
ロジスティクスあるいは補給に打撃を与えたのである。第三に、大規模な
戦力等と大量の物資を数週間にわたって輸送し続けるそのロジスティクス
計画、とりわけ海軍艦艇および輸送船を用いたロジスティクスシステムの
充実が挙げられる。これには、上陸用舟艇などの準備も含まれる。
個人が携行すべき装備は多く、40キロ近い背嚢を背負うことになった。
また、実際に歩兵部隊が上陸用舟艇から降りた所は海中であり、重装備で
約500メートルも海中及び海岸を歩く必要に迫られたのである。
ノルマンディー上陸作戦は、その準備段階から参加した兵士の数や準備
された膨大な物資の量、更には英仏海峡を越えての上陸作戦の構想やその
後のフランス解放といった事実を考え合わせれば、ロジスティクスの
側面においては、疑いもなく[地上最大の作戦]だったのである。
p142 湾岸戦争のロジスティクス
では以下で、1990〜91年の湾岸危機及び湾岸戦争(第一次湾岸戦争)を事例
としてpロジスティクスので役割りについてやや詳しく考えてみよう。
実は湾岸戦争は、必ずしも広く唱えられているような軍事技術の勝利
であったとは言い切れず、また、一部の軍人が信じているような権限の
移譲が行われた結果ーー自由裁量権の付与の結果ーー勝利を得たのでは
ない。
なるほどこの戦争で、アメリカを中心とする多国籍軍の圧倒的な軍事的勝利
と、そこでリアルタイムで見せつけられた精密誘導兵器やステルス兵器や
その威力などの結果、その後、『軍事革命』『t軍事技術革命』あるいは
RMA(Revolution MIritary Affairs)を巡る論争が巻き起こった。精度、射程、
情報の領域における軍事技術の革新は圧倒的であるとされ、これによって
戦争の様相が大きく変化したと考えられたからである。
だが、ここで少し冷静になって政治的次元として例えば、
1️⃣国連安保理決議を採択するなど国際社会の中で軍事力行使に対する一定の
正当性を得た、2️⃣ アメリカを中心として、アラブ諸国に働きかけ、この戦争
を「中東アラブ世界vs西洋世界」あるいは「イスラム教vsキリスト教」と
いった対立構図が成立しないように止めた。3️⃣ソ連(当時)とも頻繁に交渉
し、同国に軍事力行使に対する一定の理解を示させることに成功した。
4️⃣戦争勃発後イスラエルを局外に留める事に成功した。5️⃣ 軍事力行使に
際し、明確な目標をかかげ、イラクへの過度な関与(例えば、サダム・
フセイン政権の転覆など)を避けた。6️⃣アメリカ及びジョージ・H・W
ブッシュ(父)同国大統領が示した優れた戦争の指導あるいはリーダーシップ、)
7️⃣冷戦終結という国際環境の下でのアメリカとソ連の協調関係の維持
などが前提条件として整っていた。(石津朋之『湾岸戦争のポリテイクス』
NIDsコメンタリー第118号)
k
こうしたあと恵まれた政治状況の下、軍事の次元で、1️⃣パウエル・
ドクトリンに従って、戦争までの約6ヵ月間、 武器弾薬、糧食などを
中東地域に集積するなど必要な準備を整えた。
2️⃣ 兵士の訓練(例えば砂漠の戦場での)を実施し、満足できる熟練度まで
達していた、
3️⃣アメリカを中心として、情報技術(IT)革命の成果を軍事力の中心に組み込
む事に成功した。
4️⃣同盟国および友好国との連携を密にし、アメリカ軍内の共同作戦及び
同盟国との連合作戦を円滑に実施し得た、などの条件が揃ったのである。
(石津朋之ーー『匕首伝説』を考えるーーNID s コメンタリー第195号)。
とりわけ、事前に大量の補給物資を戦場の近くに集中し得た能力は賞賛に
値する。実は、この戦争でさらに興味深い事実は、地上での戦いが約100
時間で終結したのに対し、その前段階の配備に6ヵ月の時間があった事実に
加え、後段階の撤退ーー『砂漠の送別』作戦ーーに10ヵ月を費やした点で
ある。この砂漠の送別作戦では、兵士はもとより、兵器や機材を戦場と
なった砂漠地帯から飛行機や港湾に移動させ、それらを中東からアメリカ
本国まで持ち帰ったのである(パゴニスーー山動くーーp225〜)
p237) 湾岸戦争で実質的に多国籍軍のロジスティクスを統轄したパゴニス
は、以下のような結論を下している。すなわち、『この戦争は戦場でと
いうより、主要補給ルートにおいて戦われた。何ヵ月にも及ぶ後方支援の
準備が行われたからこそ、空中と地上での戦闘を1012時間で終わらせること
ができたのだ。』
p148 コンテナの有用性
アメリカ軍が民間のコンテナを導入し始めたのは、ベトナム戦争も後半に
なってから、この地域に展開された50万以上の同国軍兵士の戦闘と生活を
支えるためには、どうしても効率的なロジスティクスが必要とされたから
である。
米国を中心として世界各国の軍隊で補給物資の迅速な配送を可能にする
(ISO(国際基準規格)コンテナが広く使用され始めたのは1980年代であり、
湾岸戦争では広く用いられ、54万ものISOコンテナが使われたという。
だがその半分は内容物がわからず、現地で開梱して確認作業が必要であった
が、イラク戦争では、RFID(Radio Frequency Identification=無線周波数識別)
の導入によってこの問題は解決された。
つまり、湾岸戦争の時には前線まで送られてきた軍事コンテナにも何が
入っているのか、開墾するまで全くわからなかったそうである。水が必要
なのに、開けてみたら糧食しか無かった、違った種類の弾薬が届いたと
いった事態が生じたらしい。
それが約10年後のイラク戦争(第ニ次湾岸戦争)では、コンテナにRFIDが
装着された結果、何がどこにあるのかがシステム全体的で把握できるように
なった。必要な量の補給物資を必要な場所に送ることができるようになった
のであり、こうした技術を無視して今日の戦争は戦えない。
p150 イラク戦争ーー「軍事ロジステイクスにおける革命」
イラク戦争では、軍事ロジスティクスの外部作戦では外部委託(アウト・
ソーシング)が大きく進んだとされる。その理由の一つは、大量の物資ーー
とりわけ現地で調達できないハイテク装備品などーーを遠く海外へと移送
するノウハウに関して、民間企業の方が優れていたからである。(中略)
その一方で、こうした[ロジステイクス における革命]も、新たな問題を
生じさせた。たとえば、イラク戦争の初期の段階では、地上部隊の進撃速度
があまりにも速かったため、必要な物資を必要なだけ補給するという
「ジャストインタイム」方式ですら、その欠点を暴露することになった。
また、この戦争ではアメリカ軍の死者の3分の2がロジステイクス担当部隊
から出ていた。さらに冷戦終結後、今日の戦争は「テロとの戦い」の様相を
l呈しており、国家間戦争 を想定して構築された
ロジスティクスの方策が適応し難くなってきている。
更に近年、軍事ロジスティクスの一つのあり方としてシー・ベイシング
といった発想が注目されている。これは、同盟国などの領土内の基地に
依存することなく、アメリカ軍が自由に作戦できる海上基地との考え方で
あり、2002年に発表された作戦である。確かに、ロジスティクス基地を
海上に設けることができれば、陸上に置く場合とちがって、
ホスト国の承認が不必要な上、安全性も高まるとされる。シーベイシング
は、単に海上に基地を建設するだけでなく、所要の装備及び補給物資を、
本国から前線基地や前方に展開するシー・ベイス(海上基地)に運搬。そこから
各種の運搬方法を用いて最前線の艦艇や陸上部隊に届けるという、正に
一体型システムの概念なのである。一般的にロジスティクスは準備可能な
範囲内で戦闘を行うという「兵站支援限界」で規制する方策があり、日本の
防衛省、自衛隊は基本的にこれに従っている。(旧陸海軍はこれと異なる)。
だが今後は、戦闘に必要なロジスティクスをどうにか準備する「作戦追随
型」の方策も、求められるであろう。より具体的には、倉庫に補給物資を
保管し必要に応じてそれを最前線の部隊に運ぶような従来の方策から、
「策源地」にある民間企業から直接最前線の部隊に物資を運搬する方策への
転換である。また、既にコンビニなどで導入されているPOS(Point Of Sailes)
システムに則った管理により、部隊や兵士個人の糧食や弾薬などの保有量が
低下すると、自動的に最適なロジスティクス拠点に補給の指示が下される
といった方策の導入も検討されるべきである。いわゆる「オーダーレス」の
概念を軍事ロジステイクスにも導入することが求められる(以下略)
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おらが家が村で一番=民族差別思想について 🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️
容赦なき戦争ーー ジョン・ダワー著 斉藤元一著 平凡社 2001年 🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️ 🕶️
p79 日本人がナチスより凶暴とされたのは
なぜか 第二次世界大戦終了直後、ピューリッツア賞を2度受賞したアメリカ
の歴史家 アラン・ネビンズが、「我々は戦争をどう感じたか」という題の
エッセーを 発表した。その中で彼は、「我々の歴史上、おそらく日本人ほど
嫌悪された 敵はいなかったろう」 と述べている。ネビンズはその理由とし
て、日本軍の 残虐行為に関する報道及び太平洋におけることのほか激しい
戦いの真実を今日の われわれに語りかけているのかもしれない。 連合国側
では、日本人はドイツ人よりも蔑むべき存在であるということが 公然と主張
jされ、 また普通それには十分明快な理由があるとされた。 すなわち、日本人
は常軌を逸した背信行為を行い、野蛮であるとみなされ たのである。・・・
「 (対日戦に関して言えばもう2つの疑問点がある。)第一に、日本人が
ドイツ人よりも背信的で残虐とみなされたのはなぜか。ドイツ人は警告も
前触れもなしに隣国を攻撃し、何百万 というユダヤ人やその他の 「好ましか
らぬ」民族を大量虐殺し、さらに何百万という捕虜を 殺害し、 多くの国々
から「反社会的」人間は死ぬまで働かせるという公然たる政策の もとに奴隷
的労働力を動員し、ドイツ人将校の死に対する報復として何万 という民間
人、軍人双方を含む「人質」を処刑し、こうした報復処置に おいては村全体
の全滅さえ辞さなかった(1942年チェコスロバキアの リディツェとレザキの
例がよく知られている)ドイツと比べても、さらに 粗暴で残虐であったと
されるのは、いったいなぜか。 第二には、裏を返して、いったい日本側の
敵についての見方はどうであった かという点である。例えば日本軍の
プロパガンダでは、連合国側こそが近代 における真の野蛮人として描かれて
おり、日本人の死体を切り刻んで「土産」 として持ち帰ったとか、戦場で
捕虜を殺害したとか、焼夷弾を使って 人口密集地帯を攻撃するという人道に
反する犯罪を犯したとか、事実上無防備 の二つの都市を原爆という新兵器で
あえて破壊したとかいう例をあげていた。 (中略) (第一の問いに対して)
ヨーロッパにおける戦いと、アジア・太平洋における 戦いの区別は あまりに
単純化されたもので、次の事実をぼやかしている。 すなわちドイツ軍は、
東部戦線、西部戦線、対ユダヤ人と、複数の別々の 戦いに従事していたと
いうこと、そして、その最大にして最後の組織的 な暴挙の対象は、欧米人
からも見下され、あるいは無視されがちであった 民族であったという事実
である。代表的な例としては東欧人、スラブ人、 ユダヤ人であり、彼らは
皆、アジア人と共に、アメリカの1920年代に遡る 厳しい移民制限が、その
対象とした人々であった。・・・・ ユダヤ人大量虐殺の研究者たちは一方、
ナチのユダヤ人絶滅計画は明らかに 1,942年11月までには文書となっていた
にもかかわらず、これが欧米の指導者 たちによって一般的に過少評価され、
また、ドイツが崩壊し、特派員が 実際に死の収容所に足を運び入れるまで、
英語圏のマスコミには全く 取り上げられなかったことをあきらかにして
いる.日本人の残虐行為につい ては大きく報道していた新聞、雑誌が、
ユダヤ人大量虐殺についてはほとんど 触れなかったのである。・・
こうした雰囲気の中で、日本人がドイツ人よりも憎まれ、悪虐非道、狂信的
と受け取られたのも意外ではない。・・・ (第二の問いに対する例として)
真珠湾攻撃は、日本人が自らの偏った人種観 ゆえに予期し えなかった
アメリカ人の復讐心を掻き立てることにもなった。 真珠湾攻撃の計画を説明
するにあたって、海軍武官としてワシントンに駐在 した経験からアメリカ人
気質を十分理解していた はずの山本五十六海軍大将 ですら、太平洋艦隊に
対する壊滅的な先制攻撃により、アメリカ海軍と アメリカ国民に対して、
「物心共に起ち難きまでの痛撃を加ふ」ることが できるだろうという期待を
述べていた。見事なシンガポール攻撃を計画した 辻政信陸軍大佐も、のちに
こう述べている。「当時の我々の考えでは、 アメリカ人はその勘定高さ
ゆえに、不利な戦争を長く続けようとはしまい。 一方、こちら側は、相手が
英米両国だけならば(ソ連が加わらなければ)長期戦に耐えうるだろう、と
いうものだった」。 こうした希望的観測は、西洋文化を退廃的に描き、
英米人は一般的に 自己中心的であり、はるか彼方の長期にわたる戦いを支え
うるものではない という、国家主義的プロパガンダの普及によってさらに
高まった。 そして実際、真珠湾攻撃に続く数ヶ月は、こうした偏見が確認
されたかに 見えた。・・・・1940年半ばにミッドウェーとガナルカナルで
阻止されて からも、依然として日本人のなかには、英米の敵は心理的に立ち
直ることは 不可能であると信じていた者が多かったことも不思議ではない。
しかし 現実には、その観測とは全く逆のことが起こった。奇襲攻撃が、
アメリカ人の中に大量虐殺に対する憤怒に近い感情を呼び起こして しまった
のである。のちに太平洋方面軍司令官となったウイリアム・ ハルゼー海軍
大将は、真珠湾攻撃後,終戦までに日本語は地獄だけで 使われるようになる
だろうと宣言し「ジャップを殺せ、殺せ、もっと殺せ」 と叫んで軍の士気を
高めた。 あるいはハルゼーのモットーを海兵隊では こう言い換えて、もっと
有名にした。 「真珠湾を忘れるなーーやつらの息の根を止めろ」と。この
絶滅のレトリック が、単に奇襲 攻撃に対する怒りを反映しただけでなく、
赤裸々なアメリカ人 の人種主義的な本質を反映した ものであったことは、
明らかである。 ・・・上品な雑誌と見られる「ニューヨーカー」でさえ
ハワイ攻撃に関する 短い記事の中で、日本人を「黄色い猿」と呼ぶ、酒場で
の人々の会話を紹介 している。しかし、この一般的に見られた人種主義的
反応には、興味深い 歪みがある。それは、日本人は想像力と独創性に 欠ける
あんな意表を つく軍事行動(米軍をフィリピンから駆逐し、英軍をシンガポールで破った) を計画し、実行できるわけはないという長年にわたる日本人
観を反映するもので こうした希望的観測は、西洋文化を退廃的に描き、
英米人は一般的に 自己中心的であり、はるか彼方の長期にわたる戦いを支え
うるものではない という、国家主義的プロパガンダの普及によってさらに
高まった。 そして実際、真珠湾攻撃に続く数ヶ月は、こうした偏見が確認
されたかに 見えた。・・・・1940年半ばにミッドウェーとガナルカナルで
阻止されて からも、依然として日本人のなかには、英米の敵は心理的に立ち
直ることは 不可能であると信じていた者が多かったことも不思議ではない。
しかし 現実には、その観測とは全く逆のことが起こった。奇襲攻撃が、
アメリカ人の中に大量虐殺に対する憤怒に近い感情を呼び起こして しまった
のである。のちに太平洋方面軍司令官となったウイリアム・ ハルゼー海軍大
将は、真珠湾攻撃後,終戦までに日本語は地獄だけで 使われるようになる
だろうと宣言し「ジャップを殺せ、殺せ、もっと殺せ」 と叫んで軍の士気を
高めのた。 あるいはハルゼーのモットーを海兵隊では こう言い換えて、もっと
有名にした。 「真珠湾を忘れるなーーやつらの息の根を止めろ」と。この
絶滅のレトリック が、単に奇襲 攻撃に対する怒りを反映しただけでなく、
赤裸々なアメリカ人 の人種主義的な本質を反映した ものであったことは、
明らかである。 ・・・上品な雑誌と見られる「ニューヨーカー」でさえ
ハワイ攻撃に関する 短い記事の中で、日本人を「黄色い猿」と呼ぶ、酒場で
の人々の会話を紹介 している。しかし、この一般的に見られた人種主義的
反応には、興味深い 歪みがある。それは、日本人は想像力と独創性に 欠ける
ため、あんな意表を つく軍事行動(米軍をフィリピンから駆逐し、英軍を
シンガポールで破った) を計画し、実行できるわけはないという長年に
わたる日本人観を反映するもので あった。日本に知恵をつけたのはドイツに
違いないと誤って信じられた。 論理的に考えれば、背後のドイツ人こそ、
倍も油断がならないと言われて然る べきである。しかし事実は違った。
日本の攻撃は、人を後ろから襲う卑怯な やり方の代表的シンボルとして
残り、日本軍はドイツ軍よりもさらに野蛮で 極悪非道であるとみなされる
ようになったのである。
p100 強制労働への動員 プロパガンダ放送用の原稿を書きながら戦争の
一時期を送ったジョージ・ オーウェルは、1942年に起こった一連の事柄に
関して次のような見解を 示している。すなわち、アジアにおける欧米からの
抑圧を打ち砕くという 日本のレトリックは、確かに「巧妙」で 「人を惹きつ
ける」ものではあった が、そうしたアピールの言葉は、日本が既に過去に
おいて 行った朝鮮、 台湾、満州および中国における力による支配という行為
を見れば、一目で 矛盾を露呈するものであった。「日本の大義はヨーロッパ
人種に対する アジアの大義であると 唱える者たちには、こう聞き返すだけで
十分である。 ではなぜ日本人は、自分たちと同じ 他のアジア人に対しても
戦争の牙を向け 続けるのですか」と彼は言っている。さらにオーウェルは、
「日本人は 何世紀にもわたって自らは神聖な国民であり、他のすべての国民
は本質的に 劣等であるという考えを持つ、ドイツ人よりもはるかに極端な
人種論を信奉 してきた」とさえ言う。時が経つにつれ、アジア各地の日本の
占領下に 置かれたアジア人たちの中にもこうした見方は広まっていった。
彼らは 毎日のように日本兵に殴られ、天皇がいる東方に むかって敬礼を強い
られ、 日本語を学ばされ、悪名高き憲兵隊の手の込んだ拷問の対象と され、
そして何万という人命を奪った強制労働に動員された。・・・ 他のアジア人
を殴打するという点に関しては、日本の特に下士官兵は、上官が 自らを扱う
ように他者を扱った。つまりここでは、個人への抑圧が人種的 傲慢さという
形に転嫁されていったのである。しかし殴打という行為は、 日本人に対する
憎悪を増大させたものの、残虐行為と言うより粗野と言うべき ものだった。
ところが、拷問となるとこれは全く事情が違ってくる。 この点に関していえ
ば、日本の憲兵たちが共栄圏内で用いた方法というのは、 あらゆる 常套手段
(水責め、殴打、飢え、火攻め、電気ショック、股裂き、 宙づりなど)に、
一捻り人種的要素を加えたものであった。すなわち海外に おいては、しばし
ば憲兵の権力が 朝鮮人、それよりは回数は少ないものの、 台湾人の手に委譲
された(朝鮮人、台湾人に、仲間を殴らせる)のである。 しかしながら、
大多数のアジアの非戦闘員にとって、日本の 最も残忍な 戦時政策は、処罰で
も拷問でもなく、日本人監督下における労働であった。戦時中に日本が
アジアの労働力を犯罪的に酷使した例は、少なくとも4つ 挙げられる。
すなわち、日本国内における朝鮮人および中国人の強制労働、 現地内外に
おけるインドネシア 人、かの悪名高きビルマータイ間の泰緬鉄道 (死の
鉄道)の建設に従事させられた東南アジア 労働者たちである。 1939年から
45年での間に、67万に近い朝鮮人が主に鉱山や重工業に従事 する目的で、
日本に連れてこられ、そのうち6万人かそれ以上が劣悪な労働条件 のために
死亡したと見られている。このほか1万人を超える人々が広島と 長崎の原爆
の犠牲となったと 思われる。日本で強制労働させられた中国人に ついては、
もっと詳しい数字がある。43年4月から45年5月の間に (42年11月27日の
閣議決定に基づいて)中国から強制労働のために動員 された4 4万1862人の
うち、2800人以上が中国を出発する前に亡くなり、600人近く は日本に
向かう船上で、そして200人以上が日本全土の工場に到着する前 に、息絶
えていった。その 後、記録によれば6872人が労働現場で死亡し、 結局、
終戦後帰国できたのは3万1000人に 満たなかったと言う。 東南アジアの
強制労働者については確かな数がわかっていない。ただし、 特に
インドネシア人が日本の占領下において大きな損失を被ったことは よく
知られている。インドネシアにおいては、日本軍による「労働者」狩りが
あまりにも徹底的に行われたと言う。42年10月から42年11月の間に、
泰緬鉄道建設に動員されていたジャワ人、タミル人、マレー人、ビルマ人、
中国人労働者の数は、30万にも及んだかもしれない。このうち6万人が疾病
の 巣であるジャングルで息絶えたと見られている. こうしたアジア人男性に
対する組織的強制労働に加えて、戦場や占領地に おいては、数えきれない
アジア人(と貧しい日本人)女性が、日本兵の 「慰安婦」として売春を強要
されたのであった。 p141==リンドバーグが見たもの 捕虜をとらない
(多くの場合、捕虜となった日本兵は、その場か収容所へ 向かう途中殺され
た)と言う話は、アメリカの太平洋戦争の復員兵からよく 話題とされるもの
だったが、しかしながら、この容赦なき戦いにおける 戦争憎悪と戦争犯罪
を、チャールズ・リンドバーグの日記ほど正面から 取り上げ、表現している
ものは他にはないだろう。
1944年なかばの4ヶ月 余りにわたって、リンドバーグはニューギニアの米軍
基地で過ごし、民間 オブザーバー として飛行した。はじめの数週間が経つう
ちに彼は、深い 苦悩に苛まれるようになる。 それは戦争の本質的部分として
既に予感して いた、兵士が嬉々として敵を殺すのを目撃したための苦悩では
なくて、 米兵が敵の日本兵に対して抱く、あからさまな軽蔑の念を目の当た
りにしての 苦悩であった。その有名な「孤独なワシ」(ローン・イーグル)
は、孤立主義的 な 考え方のためにローズベルトの政策に対する保守的な反対
派の一人と見られ たが、実際は戦争の必要性は認めながらも、一方で敵を
尊重し、軍服の違い に関わらず、勇気は勇気、使命は 使命として認めること
も忘れてはいけない と説く、グレーに言わせれば、騎士道的伝統派で あった
のである。 リンドバーグは太平洋地域の連合軍の中に、そうした感情の
かけらもない ことを発見した。そこでは士官も兵隊も、敵を単なる動物
または「黄色い 畜生」としか見ていなかったのである。彼の詳細な日記は、
大平洋戦争の別」の側面について手に入る 最も率直な実体験に基づく資で
あろう。 1944年5月18日、リンドバーグが海兵隊に合流してから二週間後、
基地は 日本軍による拷問gおよび捕らえられた米軍航空兵の首切り事件の
話で持ちきり だったと、彼は記している。1ヶ月後の6月21日には、日本人
捕虜にたばこを やり、気が緩んだところを後ろから押さえ、喉を「真一文字
にかき切った」 と言うのを、t日本兵殺害の一例として教えてくれたある将軍
との会話を要約 している。リンドバーグの異議は、嘲笑と憐憫を持って軽く
あしらわれた。 6月26日の日記は、日本人捕虜の虐殺および降下中の日本
航空兵の射殺に ついて述べている。 ある場所で捕らえられた何千人と言う
日本人捕虜のうち、 「引き渡されたのはわずか100人か200人にすぎなかっ
た。残りの者たちは 事故にあったと報告された。仲間が降伏したにも 関わら
ず、機関銃で撃たれた などと言う話が広がれば、投降しようという者など
ますます いなくなる だろう」とリンドバーグは聞かされた。 日本兵が
そうした処遇を受けるのも 当然なのだと、リンドバーグは説明された。
つまり彼ら自身捕虜の体を切り 刻み、パラシュートで降下中の航空兵めがけ
て発砲したのだから、と。 7月28日の日記は、処刑の前後に日本兵にひどい
仕打ちをすることについて 言及している。 7月13日にリンドバーグはこう
記している。「味方の兵士の中にも、ジャップと 同じくらい 残酷で野蛮な
者がいたと言うことは、広く認められていた。 我々の兵士たちは、日本人
捕虜や 降伏しようとする兵士を射殺することを なんとも思わない。彼らは
ジャップに対して、動物以下の関心しか示さない。 こうした行為が大目に
見られているのだ」 7月21日のページを見ると、また日本人根絶への冷酷な
願望についても言及 されている。「米兵の首を斬り落とす日本兵は、東洋の
野蛮人で、ネズミ にも劣るやつだ」となるんだからと言う一方で、「日本兵の喉をかき切る
米涂兵は、日は本兵が 同じことを仲間にしたことを知って いたから、やったまでtf
だ」と書いている。 リンドバーグは依然として、「東洋人の虐殺行為の方が
我々のよりもたちが 悪い」と信じていたが、その区別が、だんだん曖昧に
なっていった。 翌日にはさる陸軍大佐が、「うちの兵士たちは、どうも捕虜
を獲ろうと しない」と自分に言ったと述べている。7月24日に、彼はある
戦場を訪れ、 そこで日本兵の 死体から金歯が抜き取られ、残った死体はゴミ
穴に投げ捨て られ、そして洞窟には降伏をしようとしたにも関わらず、
「もどって最後まで 戦え」と突き返された日本兵の死体が山と積まれている
ことを目撃している. 8月6日の日記には,パイロットたちの待機用テントに
在る黒板のことが記され ている。そこには胴は裸の女性、首から上は日本兵
の頭蓋骨という絵が チョークで描かれていた。その数日後、日本兵を捕らえ
るようにと言う命令が 下り、それには報酬がついたために多くの捕虜が連れ
てこられたが、普通 こうした報酬がつくことはない、と彼は言う。彼はま
た、日本軍の病院の 入院患者が皆殺しにされたことを記し、さらに
オーストラリア兵は捕らえた 日本兵たちを収容所に運ぶ途中、たびたび
飛行機の窓から放り投げること、 それを裏切り自殺と報告したことなどにも
言い及んでいる。しかし同時に、捕虜 を去勢したり、人食いをすることさえ
あると言う日本軍に関する報道は、 リンドバーグをして「我々の兵士にも
ときには野蛮な振る舞いがあるかも しれないが、東洋人の方がもっと始末が
悪い」と思い込ませた。 8月初旬の日記には、死んだ日本兵の大腿骨で鉛筆
立てやペーパーナイフなど を作るのを趣味としたあるパトロール隊のことが
触れられている。日記には、 尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは
皆殺させた海軍士官のことが 出てくる。9月の初めには、いくつかの島で
死体を堀り起こして金歯を漁る 海兵隊員のことが記されている。その他の
場所では、耳や歯や頭蓋骨 のみならず鼻も取集された。リンドバーグが
ついに太平洋諸島を離れ、 ハワイで税関検査を受けた時には、荷物に骨が
入っているかどうか聞かれた。 それは、決まり切った質問だと言われたと言
う。
p438==大東亜共栄圏プログラム 1981年に東京の古本屋で一部が見つか
った膨大な報告書は、処分されずに 生き残った他の いかなる文書より日本人
の民族的な態度について多くの光を 投げかける者である。 約4000ページ、
8巻からなる同文書は、太平洋戦争の 厚生省研究部の人口民族部の約四十人
の研究者によって執筆された。 はじめの2巻は、1942年12月1日付けで
「戦争の人口に及ぼす影響と題し、 19世紀末の日清戦争以後の過去の戦争の
歴史的背景と対照して、 アジアの 戦争が人口統計に及ぼす影響を分析して
いた。 3127ページに及ぶ残りの6巻は、より興味深い。43年7月1日に完結
し、 一括して「大和民族を中核とする世界政策の検討」と題された。この
報告書は 一般向けではなく、政策立案者と行政担当者のための実際的な指針
であり、 機密扱いにされた100部が政府部内に配布された。これが当時、
極めて大きな 影響を及ぼしたと信ずる理由はない。と言うのは、 厚生省は
官僚政治の有力な 部門ではなかったし、総力戦の最中、トップの政策立案者
に4000ページの 文書を読む暇などなかったからである。しかし、占領地域を
実際に統治する と言う当面の関心から比較的距離を置いていたことが、まさ
に歴史的文書として 特別の価値を与えている。ここで印象深く詳細に述べら
れているのは、多くは 密かに他の 場所で言われていたありふれた考え方で、
他の人種や民族に対して 実際に採用された政策を支持する理論的根拠も
含まれていた。同時に研究者 たちは、日本が計画した世界「新秩序」の長期
ビジョンーー催促されながらも 役人たちが表明する時間を与えられなかった
一つの壮大なる見解ーーを 提示すると言う稀にみる機会を持ったのである。
大東亜共栄圏プログラムとはーー この種の詳細な長期計画は、大東亜共栄圏
で実際起こったことを補足するのに 不可欠である ーーと言うのは、共栄圏
が、1940年に宣言され45年夏までに 消滅という、5年余の短い期間しか存続
しなったからである。この間、 日本は軍事支配を強化し、南方地域の諸資源
を当面の 戦争努力に活用した、 差し迫った連合軍の勝利という危機に対応す
ることに狂奔していた。 のちに日本人を弁護する人々は、戦争のための
いろいろな要求が日本の真の 目的を歪め、寛大な「共存共栄」と言う理想を
実行に移すことを妨げたと 論じている。この立場をとる人々は、42〜43年の
秘密報告書の中に、彼らの 主張を支持するからように見える理想的な声明を見出
すことができる。とはいえ 全体として同調査は、全く異なった結論を支持
している。すなわち共栄圏の 中のアジア人の隷属は、戦時の切迫した事情に
よる不幸な結果ではなく、 公式政策の核心そのものであったのである。
アジアの他の人種と民族に対する 恒久的な支配を確立することが、日本の
究極の目的であった。ーー彼らの 必要に応じて、また優秀な民族にふさわし
い運命としてーー どの民族も特に自分自身の集団に対して、世界の中の
人種的見方をとりやすく、 現代ではナショナリズムと人種意識が結びつきや
すい、と同書は述べていた。 しかし、異なる種族や 人種の一員を獣、鬼、
または敵とみなす傾向は、歴史の 最初の段階からアジア人、非アジア 人を
問わず見られる。・・・ ついで報告書は、今日の課題は、こうした人種主義
を超越することにあると のべ、超越的な 価値を見出せるかもしれない次の
3点を挙げていた。日本に 特有の思想要素、アジア民族に特有の思想要素、
それに全人類に特有の思想 要素である。 (これらは理想主義的なトーンで
語られているが、実は国家や人種間の不平等 という現実を 曖昧にしている)
この報告書の主要テーマは世界の民族とか 人種は、生来の特質と能力に
基づいた自然の階層制を形作っていると言うこと であったからである。・・
真の道徳と正義は、それぞれ異なる特質に応じて国民を扱うことを意味
した。報告書は 次の通り記していた。「実質上不平等なるものを平等視する
こと自体が不平等を意味するのである。不平等なものを平等として取り扱う
ことは平等を実現する所以である」。
p440 「其の所」
こうした見方から各民族または国民グループは、地域的ないし世界的な
計画に おいて、「其の所」を持つということになった。報告書は、この重要
な概念を 数通りの異なった方法で表現したが、
日本人の其の所については明快そのもの だった。日本人は、アジアとそして
全世界の「指導民族」だったのである。 おまけに「恒久的に」そうあり
続けるべきであり、心理的な理由からも日本人の血をアジアの土地へ 植え付
けるため,十分に検討された政策を採用する一方、異人種との結婚を
避け、
大和民族の純潔を保つことが肝要であると強調された。このように 報告書の
大半は、大東亜共栄圏に関して現存する政策を要約するとともに、 自給自足
ブロック内のアジアの劣った民族を強化するための青写真を描く ことに当て
られており、日本は政治的、経済的、文化的な支配者として 其の所を占めて
いた。 (中略) (人種主義と戦争の比較研究分析にとって、この経験的な
人種主義報告書の 重要な点は)まず 第一に、教養ある日本人の専門家の手に
なる経験的な 人種主義についての非常に詳しい実例で ある。次に、日本の
領土拡張政策と 其の人種的、文化的な優越性という想定との関係についての
率直極まりない 声明であるーー換言すれば、「汎アジア主義」とか「共栄」
といった スローガンにより、日本人が真に意味するものの核心をなす、諸民
族、 諸国家間の恒久的な階層性と不平等という想定についての声明である。
最後に報告書は、日本人の人種主義と自民族中心主義が、時折言われるよう
に ユニークで独特な現象では断じてないことを示している。(このことは)
報告書の中の2つの人気ある慣用句「血と土」と「其の所」によって 説明
することができる。 前者は紛れもなく外国の表現、後者は見かけだけはほぼ
「東洋風」である。 血と土のスローガンは、ナチスのスローガンに負って
いた。(実際に、 その言葉には必ずと言っていいほど引用符がついて
いた)。またナチスの思想 と一般的に密接な関係があるという印象は、例え
ば「生活空間」の要求、 ブルジョアの法律を超越する「家族」中心の道徳の
主張、それに人種的に 結ばれたコミュニティ、つまり国民という形の「有機
的」関係の強調といった 報告書の他の側面に強められている。だが、政府
研究者たちがナチスの教義に 明らかに通じており、そのいくつかに共感を
覚えていたという事実は、彼らが 決定的な影響を受けたということを必ず
しも意味するものではない。例えば 彼らは人種的偏見を、ナチスがしたよう
な公式の集団虐殺政策にまで推し進め なかった。さらに家族制度とか有機的
コミュニティといった概念について、 彼らはナチスに借りは全くなかった。
ここでは概念の諸影響というより、 類似性という方がより正確である。
「其の所」は逆の方向から生じたもので、アジア思想史の中で中国の初期の
儒教まで遡る 古い由来がある。其の概念は、儒教の純粋な所産として何世紀
にもわたり人気を博し、 のちには日本の家族制度のイデオロギーという傾向
を帯びるようになりはしたが、アジア独特のものと見なすのは誤解を生じ
させる。実際には「其の所」というのは、西洋思想の 中の「生き物大いなる
連鎖」に機能的に匹敵するもので、その影響力ある概念と同様 に、現世の
国民、民族、国家の本質的に異なる状態と勢力関係を、もっともらしく説明
し補強するのに役立ったのである。西洋で支配者民族が「生き物の大いなる
連鎖」の土壌から 芽を出すことができたように、日本人が自らを指導民族と
認識することは「其の所」 という伝統的な哲学上の概念とぴったり一致して
いた。た。それは分業を意味したのである。ーー 国家間、異人種間の任務
、雑務、責任の分担で、東京で決定される国民の 「質」と「能力」の判定に
基づいていた。優秀なものと劣等なものとの関係 がいつまでも続くことを
保証するよう、経済的、政治的に極めて組織化されていた。た。それは
分業を意味したのである。ーー 国家間、異人種間の任務、雑務、責任の
分担で、東京で決定される国民の 「質」と「能力」の判定に基づいていた。
優秀なものと劣等なものとの関係 がいつまでも続くことを保証するよう、
経済的、政治的に極めて組織化されていた。
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石原莞爾独走すー昭和維新とは何だったのかー 花輪莞爾 著
2000年 新潮社刊 🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️🕶️
序にかえてーー10数年前、司馬遼太郎氏がNHK教育テレビで、悲惨な
15年
戦争へ陥った日本のことを、5回シリーズで語っていた。 「明治維新ののち
半世紀、日清、日露戦争を起こし、後者の「先進国」に 勝ってから、日本は
有頂天になった。対馬海峡でバルチック艦隊を 破ったのち、大陸侵略が始ま
った。 負けたロシアは緻密冷静な戦史を書き上げnたのに対し、日本では各将
軍の 自慢話ばかり寄せられ、ぜひ載せよと圧力がかかり、“日露戦争史”は
空中分解した。以後、張鼓峰、ノモンハン、で日露は再び対戦するが、 日本
は日露戦争時と同じ横隊戦術、同じ装置を用いての惨敗だった。 日本は
台湾、朝鮮、満州、中国、東南アジアへ進攻しても、列強で
モータリゼーションが進んでいるのに、依然、人海戦術か馬の力を借りて
いた。日中戦争で華北のハゲ山を、馬が大砲を引く場面がよくある」。
司馬氏は、噛んで含めるような、語り口で続けた。最終回、愚劣極まる
昭和史を自分は書くまい、あまりに辛く、嫌悪に満ちているからだ、と
言われた。 司馬氏は学徒出陣の世代である。・・私も疎開で親子は 分断さ
れ、田舎の学校ではいじめられ、登校拒否した世代である。 戦争だからと
すべてガマンした。所が、「聖戦」とか「天下無敵の皇軍」 とかが、お粗末
であるばかりか、至る所で残酷な犯罪をばら撒いていた。 私達が信じ切って
いた昭和の政府、兵士たちの裏の姿だった。 対局をなすのが、「明治という
国家」の、外から学ぶ謙虚さと無私無欲、 サムライの自立心だったと、
司馬氏はその著書で書いている。 (🦊:狐はこの点には同意しかねる。
それほど「明治の御世」に惚れ 込んではいない。これはまだ、歴史的検証の
進んでいない部分だろう:)
p22 庄内とその気風
石原の生地、最上川の河口を囲む庄内地方は、酒田と鶴岡、ことに前者抜き
では考えられない。酒田は今でこそ地方都市だが、近代前は北前船の物流を
つなぐ、日本海ベルトの中心地である。、・・ 1341年に津軽の13湖を
襲った地震と津波は、湖を囲む十三湊 (トサミナト)という大都会を一瞬に
して消し去り、独立国に近い地方権力は、 中央権力の介入で、跡を留めぬ
ほど衰微してしまった。「庄内藩気質」とい うものがあるものらしい。
秦郁彦氏によれば「鋭い預言者的な直感力、はぎ れのよい、しかも寸鉄人を
刺すに足る皮肉と逆説を含んだ言行、他の意表に 出る大胆果敢な決断力、
妥協を知らぬ自我主張という振幅の大きい性格」 東北と中央 地域差こそ
あれ、この気風は古くから東北全体に垂れ込めていた。 古代から「まつろわ
ぬ民」(中央の神も信じぬ民)として耳ざわりだった。 北上川地域には、
奈良朝から開拓という名の征討が進み、軍の屯所は 「柵」「城」と名付け
られた。蝦夷と呼ばれる人々の本拠は、胆沢 (岩手県水沢あたり)の穀倉
地 帯にあり、その生産力が中央政権に狙われた。(中略)
p160 隣国……このワンダーランド
さて、この章でワンダーランドとしたのは、韓国のことである。海峡を隔て
て有史以来、互いにワンダーランドで今に至る。日本人の朝鮮研究は質、量
共に驚くべきものだが、韓国がわの日本論2〜30冊に比べても、まことに
頼りない内容と言わざるをえない。グレゴリー・ヘンダーソン氏著「朝鮮の
政治社会‥‥渦巻き型構造の分析」によれば、朝鮮社会が渦巻の中心(ソウル
市)に吸い寄せられる構造をなすと分析し、同時に植民地時代から今日まで、
朝鮮への日本人の冷淡ぶりを指摘している。‥‥いかに研究が大量だろう
と、日本人がほとんど無関心なのは確かだ。
高崎宗司氏の「妄言の原型……日本人の朝鮮観」は、ふと漏らした妄言を
細大漏らさず拾っている。福沢諭吉、内村鑑三、原敬、柳宗悦、矢内原忠雄
吉野作造などなど、多士済々だ。「妄言」は無意識下に押し込まれた差別感
ゆえに、始末に負えない。一瞬に漏れた差別感で、意外なのは柳宗悦で、
「ロダン彫刻入京記」の一節である。かねて文通していたロダンから、思い
がけず彫刻が届き、「日本開闢以来の最大なるできごと」と狂喜して、
「ともかく我々にとってはこの世に一大事件がおこったわけです。日本が
数万の人を殺して得た台湾も樺太も朝鮮も、このロダンの彫刻の前には、
比較にならない小さな物のような気がしました……」
当時の柳は23歳、のちに民族工芸運動を通じて朝鮮の優れた理解者になる点
からも、罪3等ぐらいは減ずべきだろう。
志賀直哉は、昭和21年の「改造」で、日本語が不完全なため、日本が「本当
の文化国」になれないとし、突如としてフランス議を国語にする案を持ち出
す。「国語に切り替えについて、技術的な面のことは私にはよくわからない
が、それ程困難はないと思っている。教員の養成が出来た時に小学1年から
それに切り替えればいいと思ふ。朝鮮語を日本語に切り替えた時はどうした
のだらう」
柳と違い、時の志賀はすでに「大作家」だった。国語を失うとは固有文化
の喪失であり、そうならぬよう無数の民族が、いかに血を流してきたかを
無視するもので、差別以前の無関心の例だ。朝鮮についてこんな不見識が
あったとは知らなかった。いずれにせよ柳といい志賀といい、白樺派の
人道主義を疑わせる文章である。
p162 日韓の行き違い史ーー半島という条件
日ー韓では伝習など多少似ていても、気候、風土、地勢などは違う。
韓ー中でも似たようなものだろう。日本は島国故の発達をとげ、中国は広大
さと長い歴史故に、雑多文化を育んで韓の「醇正」とは違っていた。
「純正」(差別感に満ちた朱子学を真正直に信じる)への自負が逆に、儒教圏
であってもいい加減な中、日への警部となってしまった。己を小中華として
本家の中国を侮り、日本を「蛮風」としていま今も退けている。
実は儒教は韓国へ押し付けられたもので、これで韓国はシャーマンの国から
「進化」し、日本も卑弥呼(これもシャーマン)の支配から律令国家へと、
似たような行程をとった。差があるとすれば、韓国が世界でも稀に、狭い
地で長年、純血種を守ってきたことだ。この純血には、血族としてのそれ
も含まれる。日本ではノレン分けや養子縁組は広く行われるが、かの地
では大騒動になる。朝鮮のこの威圧された地位を守っているのは堅固な
国境である。三方は海に面し、北の長い国境は鴨緑江と豆満江という2つの
大河が形成している。この両江は、朝鮮半島最高の長白山脈に発して東西に
流れ、15世紀以来、朝鮮の国境を成してきた。
ただ本当に「堅固な国境」かというと、むしろ逆だろう。半島は、付け根が
広く先細で、上からの力を無制限に流す漏斗状になっている。この形こそが
朝鮮戦争の時限に証明された。大陸からのしかかる共産勢力に、国連軍(=
アメリカ軍)は半島の先まで追い詰められ、マッカーサーの仁川上陸という
奇策でようやく逆転出来た。戦前戦中と日本軍部が、朝鮮無しには本土を
まもれず、その上の満州無くして朝鮮を守れず、「満州は生命戦」と
連呼していた理由は、マッカーサーの苦戦によって証明された訳だ。
カナダの研究家マッケンジーはこのことをよく伝えている。
「朝鮮は、20世紀における世界興亡の動きの最初の舞台となった。
だが朝鮮は眠り続けた。確かに改革は企てられた。それは間違いない。
だがもっと正確に言えば、その企てが、実際の改革実施において何か
弱々しかったのである。外国人の助言者たちが次々入国したが、しかし彼ら
の助言は実際上聞き入れられなかったのである。」
満州族(女真族)の清が漢民族の明を倒した。他方朝鮮は、漢文化、朱子の
礼教の直系だとの優越感すら持っていた。中国には雑多な学があるのを知り
つつ、朱子学を守り、視野狭窄になった不安解消のためなおさら礼教を実践した。(杉田博司)
喫茶店で男女向かい合うのはいいが、並ぶのは禁止の店が、最近評判がいい
との記事を見たが、日本といかに異質かがわかる。
その頃総督府(日本人による)の改善策のうち、成功したのは、その頃大量に
流入したアブレ日本人の厳重取締りがあるが、しかしながら、日本の狙いと
するところが、韓国の全面的併呑百々の民族性の完全抹殺以外の何者でも
ないことが次第にはっきりしてきた。マッケンジーが最も有力な日本人の
一人に聞くと、彼はこう答えた。「韓国は日本に併合されるでしょう。
彼ら韓国人は我々のコトバを話し、我々と同じように生活し、我々の完全な
一部分となるでしょう」
ある在日韓国人をして言わしめた「最大の愚行」とは、苗字を
日本風に変えてしまう「創氏改名」だった。なるほどこれで、「完全な
併合」はなるだろうが、歴史と家柄と族譜(チョクボ)に何よりこだわる民族が
相手では、これほどの下策はあるまい。
p255 第一次世界大戦とアメリカの参戦
ポール・ケネディの「大国の興亡 下」によると、4年半での人的損害は、
両陣営で戦死者800万、障害者700万、重軽傷者1500万、ロシアを除く
全ヨーロッパで、民間人死者500万、ロシアは内戦などの死者を合わせると
全ヨーロッパより多くの犠牲を出した。
物的被害は、直接・間接の費用など計算不能だが、ケネディによるとおよそ
2600億ドル…………これは18世紀から第一次大戦まえまでに発行された、
世界中の国債の総計の6.5倍だという(D・Hアルドクロフト)
イギリスは直接被害も相当だったが、経済、危機支援も多く、各国に
イギリスに対する負債が残り、イギリス自身もアメリカへの負債があった。
大戦は大英帝国の圧倒的な国力でも止められず、アメリカに始末を頼む
ほかなかった。
ためらっていたアメリカを参戦させたのは、ドイツの愚策中の愚策、
Uボートによるアメリカ商船攻撃だった。
「アメリカ客船ルシタニア号が魚雷攻撃で撃沈されたのは、明るく穏やかに
晴れた昼下がりであった。乗客1500人は、ちょうど小昼を済ませ、デッキに
立って、近づいてくるアイルランドの海岸を見ていたが、突然、白い一本の
線が青い水を突っ切って舟に迫ってきた。巨船は大揺れに揺れた。」
(フォス新聞、1915年5月10日)
この本はある教会牧師の一文も載せている。これで死んだ乗客への「同情、
思いやり、懸念といった自然の感情を捨てきれず、ドイツ軍の赫赫たる
戦果にたいし、率直な喜びに浸れないような者は、真のドイツ人とは言え
ないだろう。」
日本でもこうした者を非国民とののしる狂気があった。
同じ愚策はパールハーバーでもくりかえされる。
p257 物量戦争と精神主義
🦊ここでいよいよ石原莞爾登場。ーー石原莞爾とは何者?軍人。軍事立案者
というのもあり、分裂気味の精神状態とする評価あり、トリックスターだと
いう人もいる。ただ、豪快な軍人というわけではなく、下戸で、あまり人
付き合いよくない、仲間を集めて親分として振る舞うというのでもない。
満州事変勃発の時期、彼は まだアジア各民族の自前の近代化を信じていた
らしいが、すぐにそれは「日本軍による指導が必要」となり、日本軍による
占領統治、日本化、西欧植民地主義からの脱出、そこまでは軍部のウケも
良く、勝戦を重ねたらしい。さて、満州の近代化、経済発展、民衆の
生活の救済は、現地の支配層の仕事であって、軍人の得手ではない。
石原は、儒教でいう「王道」を提唱した。帝王の義務として、。全人民の
幸福を常に考える。(そんな王朝は現実には有ったことがない、宗教上の
表看板だが)満州族の政治機構にとってそれは無理。となると、まず国土を
独立させて、日本人の指導のもと、満州族の中から統治責任者をそだてる、
(当然、軍部はいずれ追い出す)ことになる。満州奪取の功労者である軍隊を追
い出す?石原自身軍人であるのに、それに名案があるわけない。日本政府は
軍部をうまく使って資源強奪を目論んだらしいが、ここへきて、西欧の目も
あり、清国の皇帝溥儀を復帰させて、満洲国という名の植民地を各国に承認
させ、軍人に支配させることにする。(日本人はバンザイ!とこれを祝った。)
うまく言えたかなー?なにしろ本書は650ページ以上もある。面白い
エピソードも山盛りだが、残念。石原氏は退役間近になって「昭和維新論」
だの「最終戦争」論だのと、新説を持ち出して、トリックスター的になり、
現在に名を残している。
p333「実に日本の武力は日本国体と世界を救うため、その正義を守る守護神
である。戦争の破壊再創造、覇道と王道の戦いを通しての統一。戦争の絶滅
は人類共通の理想だ。しかし道義的立場からこれを実現するのが至難なこと
は、数千年の歴史が証明している。戦争術の極限の進歩は、ついに絶対平和
にならざるを得ない有力な理由で、その時期はすでに切迫しつつあると
思われる」と、彼は言っている。(昭和40年)
p625 満州帝国の成立
「協力者」による行政委員会が結成され、1932年2月18日、同委員会が
「党国政府との関係を離脱し、東北省区は完全に独立せり」と宣言した時点
で、満州建国が本格化した。「満洲国史総論」から事実関係だけ言うと、
翌19日も国体が決まらず、24日にようやく折衷案として、溥儀を執政と
する民主共和でみな納得した。東北行政委員会は3月1日、清朝の紀元
当日に満洲国政府の名をもって、奉天で建国宣言をすることになる。
🦊 最近、「昔の日本人はカッコよかった」という類の写真集が宣伝されて
おり、満州国建国当時らしい軍人の写真が表紙を飾っている。カッコいい
の中身は、中国に植民地を作って、鉄や石炭を奪い、中国人も将来の日本人
となるんだからと、まず最初に徴兵制にかけたそうな。「五族共和の王道
楽土」などという仏教説話風天国も、実は中国人にとっては「地獄で」
あったと、中国の人は証言している。
石原莞爾という人は、夫人宛の手紙などには、細やかな心情を綴っている
一方、仇敵の東條英機とは、部下の目の前で罵り合いを演じたり、分裂病的
な面を見せるなど、変わった人である。キツネに言わせれば、「胃袋の弱い
軍人」だがなー。
2024 11