キツネと遠近両用めがね遠近両用めがねとは「本」のこと。素晴らしい書き手は学者、ジャーナリストにも多い。優れた翻訳者にも出会うだろう。それを人生の「ウマイめし」
としたならば、将来の栄養になるだろうとキツネは思う。


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としたならば、将来の栄養になるだろうとキツネは思う。


昔の日本人はカッコよかったって本当?

死の商人

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「死の商人) 岡倉古志郎       1999年新日本出版社  刊

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p125==デュポンーー火薬から原水爆へ

(第一次大戦中、デュポンは、連合国が使った弾薬の40%を供給

したが、その後もアメリカの軍当局に対する軍事用爆発物の主要な

供給者であった。戦時中、デュポンの使用労働者数は、5千人から

10万人に増えた。1914年にデュポンが生産した火薬の量は、

226.5万ポンドだったが、翌1915年には連合国からの注文が

殺到し、其のため生産高は1.05億ポンドに激増した。1916年に

は、前年の約3倍の2.87億ポンド、さらに、1917年

話は少し以前に遡る。ヴェルサイユ条約が世界平和を確立すること

に失敗して以来、国際連盟は、数年間ぶっ続けで毎年のように会議を

開き、広汎な軍備縮小を実現しようと努力していた。1925年、

国際連盟は、ドイツが秘密のうちに再軍備を進めているという情報に

驚いて、第一回軍縮会議を開くことになった。この会議では、武器、

弾薬、その他軍需品の国際取引の制限の問題が取り上げられるはずで

あった。

この軍縮会議が開かれることになってから、デュポンその他の軍需会社

は、当時の商務長官での後に大統領となった共和党の領袖ハーバート・

フーヴァーからワシントンへの招請電報を受け取った。其の電報は

「来るべきジュネーヴ会議で討議されるはずの武器、弾薬、その他軍需品

の国際取引の制限に関して、商務省当局としては、関係業者の意見を聞き

たいから、準備的な討議に代表を送っていただきたい、軍縮に関する草案

は別に郵送したからご覧を願いたい。当局としては業者の利益を保証する

ことに十分留意している」というものだった。

・・・(軍需工業界の各代表は、協議の対象となった軍縮草案に対しては、

満場一致で反対したという)

ところで、ジュネーヴに派遣される政府代表の一人には、軍需局次長

ラッグルス将軍が極秘のうちに内定していた。この人事は秘密であった。

だが、ラモット・デュポンは、早くもこのことを知り、シモンズ大佐

を派してラッグルス将軍を訪ねさせた。・・・(シモンズ大佐からの

ラモット・デュポン宛の手紙には)大佐は次のように書いている。

「軍需品の国際取引に関する会議の結果について言えば、其の内容は、

我々が以前そうあるべきだと考えていたものとは、ずいぶん違っている。

それは軍需品製造業者の国際的取引にとっては、かなりの不便は

あるが、実質上、何等妨げになるものはない」。・・・

このようなことがあってのち、ジュネーヴ会議は開かれた。其の結果、

軍需資本家たちは、ある程度の制限を受けたが、にもかかわらず、それは、

軍需品の取引を全然不可能にするものではなかった.


p140「デュポンはナチを助けたか」

第二次世界大戦の末期、アメリカ議会の軍需品調査委員会は、次のような、

驚くべき事実を明るみに出した。それによると、1933年2月1日、

フェリックス・デュポンは、ジーラと称する人物と商取引上の協定を結んだ

ことになっている。このジーラという人物は、実は、本名をペーテル・

ブレンナーという国際的なスパイで、第一次世界大戦初期にはドイツの

スパイとしてドイツのためにアメリカで活躍し、1917年アメリカが

参戦するや否や、直ちにドイツとの関係を断ち、今度はデュポンの諜報員に

なったと言われる人物である。ところでこの協定の内容は、火薬と炸薬とを

ドイツ及びオランダの両国内の購入者に対して供給することにあったので

あるが、この協定の実行にあたっては、デュポンのパリ駐在代理人テイラー

およびケーンの両名が当たることになっており、当時禁止されていたドイツ

への軍需品の輸入方法に関して、これ等の人々が秘策を練ったことが記録に

見えている。例えば、上院の軍需品調査委員会で、委員長ナイ上院議員の

質問に対して、テイラー代理人は答えているーー「オランダの河川を遡れ

ば、軍需品をドイツに送り込むことは、途中、何の取り調べもないから、

極めて容易なことである」。・・

そればかりでなく、この契約は、ドイツ国内における火薬及び炸薬の販売に

まで及んでおり、しかも其の際、ウェルサイユ条約の規定は些かも考慮

されていなかったという。デュポンは其のドイツの盟友IGファルベンとの

密接な関係をも維持していた・・「デュポンとIGファルベンとは、一個の

紳士協定を結んでいた。かの協定によれば、一方は他方に新しい製造方法や

新しい製品を与えることになっていた」。全世界を三大分していたデュポン

(アメリカ)、ICI(帝国化学工業ーーイギリス)、IGファルベン(ドイツ)

の3大化学トラストは、戦時中も何とかして緊密な友好関係を保とうとした

ばかりでなく、戦後も、どちら側が勝ち、あるいは負けるにかかわらず、

戦前の友好関係を回復しようと考えていたようである。・・・

これはまさに「売国的」であり、「スキャンダル」であろう。だが、

デュポン自身は無論、この事実を徹頭徹尾否認している。・・


p143ーー「1年1ドルで国家に奉仕」

それはさておき、デュポンと第二次世界大戦との深い関係は、原子爆弾の

生産を除外しては、考えられないであろう。

 「マンハッタン計画」(原子爆弾生産計画)が密かに計画された頃、この

計画の中心人物レスリー・グローブス中尉は、ウィルミントンへやって

きて、デュポンの首脳陣に、彼の計画の輪郭を打ち明け、デュポンの協力を

求めた。(中略)

(軍部がデュポンに目をつけた理由は、1。これまで独自のシステムを構築

することに慣れている。2。また、極めて多方面的、包括的な機能をもつ。

3。爆発物に関しても豊富な経験を持っている。4。陸軍省はデュポンを良く

知り抜いており、長い年月にわたって親しい関係を保ってきている

(ジョン・ガンサーによる)

こういう理由から、陸軍省は、真っ先にデュポンに白羽の矢を立てたの

だった。だが、これに対して、デュポンは、最初あまり乗り気でなかったと

言われる。

「自分たちは化学者であって、物理学者ではない」と言うのがデュポンの

答えだった。しかし、結局、デュポンは条件付きで「マンハッタン計画」

に参加することになった。其の条件とは、

 1。この計画につき、特許権申請をしないこと、2。計画を引き受ける手数料

年額1ドルに留めること、であった。全く素晴らしい条件である。デュポン

ほど立派な、損得を無視した「愛国者」はどこにもないように思われた。

「ア・ダラー・ア・イア・マン」(1年1ドルの男)と言う言葉は、ここから

生まれたのだが、この言葉が軍需資本家、「死の商人」の別名として使われ

るのは、デュポンにーしてみればまさに、けしからぬことであろう。

デュポンは、シカゴ大学の監督の元に、まずテネシー州クリントン、つまり

オークリッジの付近に試験工場を建設し、ついで、ワシントン州

ハンフォードに3.5億ドルの巨費を使ってハンフォード・プルトニウム工場を

建設した。「これまで世界で企てられたもののうち、最も大規模な、また

最も困難な工業企業は、こうして実現されたのである。

 最も、これ等の巨額の費用はデュポンが自腹を切ったわけではない。全て

国費である。


 p145==「原水爆時代」

 戦争は終わった。だが、アメリカの「死の商人」の前には、新しい分野が

開けた。それは、核兵器生産の分野である。

1946年に「原子力法」が制定され、この法に基づいて「原子力委員会」

(AEC)と言う国家機関が創設された。1947年1月、AECは陸軍から

「マンハッタン計画」を受け継いだ。引き継ぎの際明らかになったことは、

過去7年間に原爆生産に投下された経費が22億ドルの巨額に達していたと

言うことである。その後、「冷たい戦争」が展開されるに及んで、原子力

予算は、まず年額10億ドル台になり、ついで20億ドルを超えた。・・

原子力産業は、「死の商人」にとっては、最も素晴らしい活動分野であっ

た。

何しろ、其の規模がどえらく大きい。年額20億ドルもの巨費が建設や運営の

ためにばら撒かれる。其の設備はといえば、USスティール、ジェネラル・

モータース、フォード、クライスラーの4つの巨大会社を合わせたよりも大き

く、数十万の技術者、労働者を擁している。ところで、この土地、建物、

機械などの固定設備は無論、AEC,つまり国家が賄うが、其の建設、運営は

デュポンだとか、ユニオン・カーバイド(ロックフェラー財閥系)や、

ジェネラル・エレクトリック(GE)(モルガン財閥系)のような巨大企業に

任せられる。建設、運営を引き受ける会社は自社製品を優先的に売り込み、

据え付ける特権があり、また、運営の代償として「生産費(コスト)プラス

手数料」の原則で、AECに請求し支払いを受けるが、この「手数料」は純然

たる利潤だとAEC担当者さえ認めている。

このほか、運営にあたっていれば、科学技術上の機密が自然入手できるが、

これ等の機密は、将来原子力産業が民間に解放される場合には、ごっそり

いただくことができる。

 「死の商人」にとって、こんなボロ儲けの分野がかつてあったであろうか。・・・

 原子力産業は「死の商人」にとってこのように魅力的なものであったから、

其の獅子の分け前をめぐる「死の商人」の角逐、競争は激烈を極めた。

デュポンは「マンハッタン計画」では、原子力産業に先鞭をつけたが、

戦後モルガン財閥の激しい食い込みに遭って一時は苦杯をなめた。モルガン

系のGEはハンフォードのプルトニウム工場の経営権をデュポンから奪取した

からである。

だがデュポンに再び春が巡ってくる日がやってきた。1950年1月31日、

トルーマン大統領は、アメリカの原爆所有独占を打ち破ったソ連に目にもの見せようと

水爆製造命令を下した。其の年の8月2日、AECはデュポン・ド・ヌムール会社に

水爆製造工場の設計、建設、運営を任せる決定を行なったのである。

 デュポンの引き受けたこの水爆工場「アメリカ南部のサウス・カロライナ州

サヴァンナ・リヴァー・プラント」は、同州アイケン、バーンウェル両郡

またがる25万エーカーの広大な土地に実に10億ドルの巨費を投じて作られ

たものである。こうして作られた水爆が1954年3月1日、ビキニで爆発

する。


 p170==恐竜は死滅させられるか

 一人の馬鹿が道端に立って、槍や火縄銃を肩に担いだ

一隊の軍勢が行進してくるのを見ていた。兵隊がすぐ

そばを通りかかった時、馬鹿は尋ねた。ーー

 馬鹿ーー「皆さんは一体、どこからおいでですか?

 兵隊ーー「平和からだ」

馬鹿ーー「どこへゆくのですか?」

 兵隊ーー「戦争へさ」

 馬鹿ーー「戦争で何をするんですか?」

 兵隊ーー「敵を殺したり、敵の町を焼いたりするんだ」

 馬鹿ーー「なぜ、そんなことをするんです」

兵隊ーー「平和をもたらすためにさ」

馬鹿ーー「はて、おかしなこともある。平和から

    やってきて、戦争に行く、それも平和を

    作るためにだと。なぜ、はじめの平和に

    止まっていないんだろう?」

     ーーーーーーー(中部高地ドイツの伝承寓話)ーー


 p173==生きている恐竜

第二次世界大戦がたけなわな1943年5月、アメリカの 評論家

ウイリアム・アレン・ホワイトは、「有力な大会社が戦線の両側で活躍して

いること」、「これ等の巨大な独占体が戦争を私的な致富の種に利用して

いること」に憤慨して、次のように書いた。ーー「これ等の軍需工業独占体

の国際的結合は、ものすごい力を持ち、しかも、一片の同義心も持ち合わせ

ぬ恐るべき恐竜、怪竜の類である彼らは、この巨大な爬虫類がはるか昔に

死に絶えたと信じられている現代 でも、なお、キリスト教文明の上にのしか

かり、我が物顔で 世界を徘徊している」。

ホワイトが、「死の商人」を「生きている恐竜」、「生きている怪竜」に

例えたのは、まことyに適切だと言わねばならぬ。

 確かに、これ等の恐竜、怪竜は、まだ現代に生きており、其の恐ろしい

赤い舌の先から、絶えず戦争の脅威を吐き出しているのである。・・

これ等の恐竜や怪竜は、古くは普仏戦争、近くは第一次世界大戦、さらには

第二次世界大戦にかけて、ずっと猛威をたくましくしてきた。我々が十分

警戒を払わないならば、彼らは、第三次世界大戦をさえ引き起こすかも

しれない。・・・

(🦊これら死の商人の生態は、ほぼ次のようである。

1。彼らには祖国というものがあるようで無い。祖国とか隣人愛

 とかいうものは無用の長物、何よりも大切なのは利潤である。

2。死の商人同士の間には極めて緊密な国際的結合があり、それは

 互いの競争や弱肉強食によって妨げられるものでは無い。

3。彼らにとっての最大の敵は、本当の意味での平和である。

なぜならば、彼らの生命を維持するのに不可欠な血液は、戦争

ないし戦争準備だからである。

 4。彼らはこれまでのところ「不死身」であった。彼らの国家が

 戦争で敗れようと、彼らは戦争で荒れた廃墟の中からフェニックス

 のように、いつでも蘇生してきている。クルップやIGファルベン、

 日本の財閥などの「死の商人」の歴史は、以上のことを裏書きしているよう

である)


p175 「死の商人退治論」

だが、この恐竜、怪竜の正体は、時代が進むにつれて人々の目の前に、

明らかにならないわけにはいかなかった。平和と正義を愛する人々は、

「死の商人」を攻撃し始めた。

それでは、「死の商人」を退治すべきであるとする人々は、具体的には、

どんな方法を考えていたのだろうか。

 ある人々はこう言った「軍需工業を国有化ないし国営化するのが 一番だ。

なぜなら、こうすれば,戦争の大きな原因となっている国際的な武器の販売を

制限できるからだ、と。

 だが、例えばヒトラー治下のナチス・ドイツや1930〜40年代の日本では、

軍需工業も、名目上国家統制のもとに置かれていたはずなのに、そこで

IGファルベン、また財閥が何をやったかという事実に照らしてみれば、

国有や国家統制が問題を根本的に解決しなかったことがわかる。問題は、

誰が国有化の主体になるかによって決まるのである。「死の商人」が

主体である限り、彼らが自分の手で自分の息の根を止めるはずはない。

またある人は言った。ーー国際管理が最もいい方法である、と。

この思想も古くからある。例えば、1890年のブラッセル会議は

アフリカへの武器の輸出を禁止した。だが、これは、完全に失敗した。

 其の証拠に、1896年、エチオピアは、有名なアドワの戦いで

イタリア軍を破ったが、このエチオピア軍の武器は、仏領ソマリーランド

を通じて密輸入された英仏製の武器だったのである。また、第一次

 世界大戦後に国際連盟がやろうとした武器、軍需品の移動の国際管理

がやはり同様な苦い経験を踏んでいる。

 では、なぜこのようなやり方がうまくいかなかったのか。

「死の商人」が其の代弁者を通じて猛烈に圧力をかけてきたからである。

次に其の一例を挙げてみよう。

(1930年、米、英、日三国は、海軍軍備制限条約に調印した。

当時のアメリカ大統領ハーバート・フーヴァーは、上院にこの条約の批准を

求めたが、突如、猛烈な反対運動が起こった。運動の主力「海軍連盟」は、

「この条約は、アメリカの安全保障を窮地に陥れるとして、猛烈な反対運動

を繰り広げた。

この「海軍連盟」の実態は何だったか。表面上は、軍縮反対論者、大海軍

要論者の個人的なグループのような外見を呈していた。

だが、クロード・タヴェナー議員が議会で公表した調査の結果によると、

この連盟の発起人には、18名の人物と1つの会社がなって8おり、其の会社と

いうのは、政府が2000万ドルの装甲板を購入したことのあるミッドヴェイル

鉄鋼会社であり、個人の発起人の中には、装甲板その他の軍需品を作って

いるベスレヘム・スティールの社長チャールズ・シュワップ,海軍からの

大量注文で巨大な利益をあげているUSスティールのJ・P・モルガン、砲弾の

生産に必要なニッケルを独占しているインタナショナル・ニッケルの

R・M・トムプスン、前海軍長官で退職後カーネギー・スティールの顧問

 となったB・F・トレイシーなどが名を連ねていた。つまり、

「死の商人」たちが「海軍連盟」を作り、これを通じて、軍縮に反対した

わけである。


P178==「死の商人」は反駆する。

時代が進むにつれて、「死の商人」に対する非難の声は、次第に

大きくなってきた。これは、「死の商人」にとっては、見のがす

ことのできぬことである。なぜならば、彼らは自分の本質を見破ら

 れることを極度に恐れるからである。だから、彼らは、自分の息の

かかっている新聞、雑誌、ラジオなどを通じて、本当の平和の擁護者

たちを徹底的にやっつけようとする。其の場合、「死の商人」たちは、

いかにも、自分たちだけが「愛国者」であり、自分たちに敵対する者は

「売国奴」、「妄想狂」、「空想家」、「赤」であると、口を極めて

非難するのである。彼等「死の商人」たちは、反対者たちが彼らを

「極悪非道の悪漢と呼び、世界平和に挑戦し、戦争を誘発する、科学や

技術の進歩を人類の幸福のためではなく、人類の破壊のために利用する

非人道的、反社会的な輩だ」と非難するのに対して、どう答えただろうか。

「自分たちは悪漢でも何でもない、自分は単に実業家としての慣行に

したがって取引をしているだけだ。たまたま、自分が武器を取引する

 ためにとんだ非難を受けるが、自分たちと乗用車のセールスマンと一体

どこが違うのだ」。・・

あるイギリスの「死の商人」はこう言った。ーー「住宅建築会社では、

 盛んに結婚を奨励する運動を行っている。それはたくさんの新夫婦が

できれば、それだけ住宅の需要が生ずることになり、会社は儲かる

からだ。我々が戦争をそそのかしたり、戦争を歓迎するのも、全く同じ

理屈なのだ」と。言いも言ったりである。彼はまた、こう言うーー

「我々が戦争の責任者だというのは、とんだ濡れ衣である。軍需工業が

戦争を生むのではなくて、逆に戦争の「体制」自体が軍需工業を発展

させるのではないか。国際的紛争の最後の手段として戦争行為を正当化

している現代の文明社会そのものこそ、戦争の究極の責任者なのだ。

現に、戦争をしでかす当事者は、我々ではなくて、政府であり、議会

ではないのか」。

さらに、彼は、一歩進めて、次のように開き直るのであるーー

「一体、宣戦布告する権限は誰の手の中にあるのだ。世界のほとんど

全ての国々の憲法は、宣戦布告の大権を政府ないし議会に与えている

ではないか。我々を非難するのなら、なぜこういう憲法そのものを

非難しないのか。それにまた、政府自身が、ナショナリズム、

ショーヴィニズム、経済対立、領土的野心、軍国主義などを煽って

いないと言えようか。してみると、これ等の要因と我々と比較した場合、

 どちらが、戦争に対する権限を多く持っているだろうか」。

これはこれなりに筋の通った議論である。だが、クルップやIG

ファルベンが、どの様にうまうまとヒトラーをたらし込み、ナチス・

ドイツ政府を侵略戦争の道具に仕立てたかは、我々が既に知った

通りである。

この様な議論は、巧みに組み立てられた詭弁でしかない。

資本主義社会では、「死の商人」と政府、議会は相対立する

別の存在ではない。特に現代では、「死の商人」、つまり

独占資本は、国家機構を自分の道具として駆使しているに

おいておやである。

「死の商人」はまた、別の詭弁を使う。

それは、自分こそが「平和の友」であるかの様に装うことである。

デユポンは、「全世界が戦争に反対するならば、これほど

満足なことはない」と言った。この様な言葉は、果たして、

「死の商人」たちの本音であろうか。

彼らが内心で絶えず要求している「戦争」は、彼らの論理では、

まさに「平和」そのものから導き出される。其のことは、

この章の初めに引用した中部高地ドイツの寓話が、いみじくも

指摘している通りだ。彼らが好んで用いる論理は、「平和は

戦争準備によってのみ確保される」、「安全保障は武力の

裏付けなしにはありえない」というのである。この論理は

第一次、第二次両世界大戦前にも好んで用いられたし、

現在では「力による平和」「軍縮のための軍備」などの新装を

凝らして再登場している。

また、大量殺戮兵器を作り出すこと自身が、其の大量殺戮の

脅威によって戦争をなくす結果を生むのだ、と彼らは主張する。

例えば、次の様なエピソードはどうだろう。

1892年に、「ダイナマイト王」アルフレッド・ノーベルは、

平和運動に従事していた貧乏な作家(「武器を捨てよ」の作者)

べルタ・フォン・ズットナーに確信を持ってこう語ったのである。

「私のダイナマイト工場は、多分、あなたがたの運動よりも、

ずっと早く戦争を絶滅させるでしょう。というのは、

対抗する両軍が1秒間に全滅させられる様な爆発物ができたら、

文明国民は、きっと軍隊を解散するに違いないから・・・」

だが、ノーベルのダイナマイトより数十、数百万倍も強力な

原子爆弾が生れ、さらに、其の何百倍もの破壊力を持つ

水素爆弾ができても、ノーベルの予想は実現しなかった。

逆に、「死の商人」たちはノーベルの論理を「核抑止力」

などという現代的な表現で再生し、巨額のドルを汲み出す源泉

にしているのである。


p182==恐竜の死滅

 では、この様な怪物を退治することは、果たして不可能な

ことだろうか。

戦争と其の原因とを根絶し恒久平和を確立したいという

人類の熱望は夢でしかないのであろうか。

オットー・レーマン・ルスピュルト教授は、今から70年も

前に書いたーー

「私は、自分が全然悲観的だという印象を与えることは望んで

いない。なぜかと言えば、私は、前方に横たわる膨大な任務を

見て、意気が挫けたわけではないからだ。私たちは、このこと

に関連して、次のことを 思い出すべきである。ーー食人、

奴隷制、農奴制、拷問などの野蛮な慣行は 絶滅させられた。

しかも、最初これらに反対した人々は馬鹿だとか、犯罪者

だとか言われて蔑まれ迫害されたにもかかわらず、これ等の

野蛮な慣行はついに廃止されたのである。この事実を想起

すべきである」。

また、これまでたびたび引き合いに出したエンゲルブレヒト

博士は、第二次世界大戦前に次の様に言っていた・・・

「空は、再び、低く垂れ込めた戦雲で曇り、黙示録の4騎士は、

またも馬にまたがり、破壊と死とを後に残すべく疾駆し始め

ようとしている。だが、戦争は人間が作り出すものであり、

同時に、平和も、もしそれが到来するとすれば、やはり、

人間の手で作り出されるものである。だから、戦争及び

軍備を作り出すものの挑戦に対して、良識ある人々、

目覚めた人々は、断じてこの挑戦を避けてはならぬことは

確かである」。

 これ等の良心的な学者たちが言ったことは正しい。それは、

現在でも妥当性を持っている。確かに、戦争は人間がつくる

ものである。人間が作るものならば作らぬ様にすることも

できるはずである。だから、エンゲルブレヒト博士が、

「死の商人」の挑戦に応えて立ち上がり、戦争の息の根を

止め、平和を自分の手で作りだせ、と訴えたのは正しいと

言わねばならぬ。「死の商人」はむろん、こういう

「不逞の輩」を「馬鹿」だとか「赤」だとか、「犯罪人」

だとかいうであろう。しかし、其の「馬鹿」や「犯罪人」

が数千人も、数億人もおり、しかも組織されているならば、

また、「馬鹿呼ばわり」や「犯罪人呼ばわり」にもめげず、

断固として行動するならば、まさに、平和は、これらの

「馬鹿」や「犯罪人」、つまり人民が作り出すのである。

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AMNESTY INTERNATUINAL 2019年8月29日

国際事務局発表ニュース

「拡大する世界の武器取引」

武器貿易条約(ATT)は、アムネスティーなどのNGOが連携した

国際キャンペーン「コントロール・アームズ」による20年以上

にもわたる取組みから議論が開始され、2013年4月の国連総会で

成立、2014年12月に発効した。

ATTは、武器や弾薬などが、ジェノサイド(集団殺害)、

人道に対する罪、戦争犯罪に使用される、あるいは助長する

ことが明らかな場合に、国家間の武器移転を禁じる国際条約だ。

予測される武器輸出が、国際人権法や重大な違反を助長する

リスクがどれだけあるのか、その分析と評価が毎年、行われ

ている。

しかし、主要締約国の多くは、武器取引規制を守ると

言いながら、重大な人権侵害に関わる国への武器売却を

続けてきた。

以下に紹介する武器輸出入をめぐる数字や状況は、救いようの

ない事実を突きつける。数字は、ストックホルム国際平和研究所、

スモール・アームズ・サーベイ、ウプサラ紛争データプログラム

の各団体が収集したデータに基づく。

世界の武器関連金額

・2017年の世界の武器貿易総額は、少なくとも950億ドル

(約10兆円)。

・軍事関連企業の上位100社で、3,982億ドル(約42兆円)

 の売上を記録。

・2018年の米国の軍事費は、世界全体の36%を占める。

主要な通常兵器の輸出入

 ・米国は、武器輸出国として突出する。主な輸出先は

 サウジアラビアで、2014年から2018年までの5年間では、

  総輸出量の22%を占める。

・2003年以降、世界の輸出量は毎年着実に増加し、冷戦

 終結後、最高水準に達した。

・2014年から5年間の武器輸出上位5カ国は、米国、ロシア、

 フランス、ドイツ、中国。5カ国の総輸出量は、世界全体

 の75%を占める。

・同期間の武器輸入国は、上位からサウジアラビア、インド、

 エジプト、オーストラリア、アルジェリアである。5カ国の

 輸入総額、世界全体の35%を占めた。

輸出上位5カ国国別輸出先(調査期間は2014年〜2018年。

カッコ内の数字は、総輸出量に占める割合)

1. 米国:サウジアラビア(22%)、オーストラリア(7.7%)

  アラブ首長国連邦(6.7%)

2. ロシア:インド(27%)、中国(14%)、アルジェリア

  (14%)

3. フランス:エジプト(28%)、インド(9.8%)、

  サウジアラビア(7.4%)

4. ドイツ:韓国(19%)、ギリシャ(10%)、イスラエル 

  (8.3%)

5. 中国:パキスタン(37%)、バングラデシュ(16%)、

  アルジェリア(11%)

中東への武器移転(2014年〜2018年)

・その前の5年に比べ87%増加。

・米国の総輸出量の半分以上は中東向け。

 ・英国は59%。その大部分は、サウジアラビアとオマーン

 向けの戦闘機。

サウジアラビアとイエメンへの武器輸入

 ・2014年〜2018年は、サウジアラビアが世界最大の輸入国で、

 米国と英国からの輸入が圧倒的だった。

 サウジアラビアの武器輸入は、2013〜2017年で225%拡大。

2014年〜2018年、サウジアラビアは、米国から戦車338輌、

  オーストラリア、カナダ、フランス、ジョージア、

南アフリカ、 トルコの6カ国から装甲車など4千両以上を

輸入した。

小型武器と軽兵器

・世界には10億丁を超える銃が出回り、その大部分を市民が所有

 する。

・市民100人当たり、米国ではおよそ21丁を所有する。

  イエメンでは53丁、モンテネグロとセルビアで39丁、

 カナダとウルグアイで35丁だ。

・2017年、ベネズエラとサルバドルでは、銃による死亡率が

 世界 で最も高かった。

・今後50年以内に軍用ライフル、カービン銃、ピストル、

 軽・重機関銃の生産が、世界で3,600万丁から4,600万丁に

 達するとみられる。

人的損失

 ・この10年間の武力紛争での死者は、2,436,351人だった。

  昨年1年では、77,320人だった。

・2017年、世界中で銃による犠牲者が急増し、およそ589,000人

 の死者を出した。特に中南米とカリブ海の国々で顕著で、

 深刻な社会問題化した。

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🦊:というわけで、どう考えてもアメリカは現在、死の商人である。

死の商人が軍縮を言うか?

ゴルフ好きの米大統領が、アラブの皇太子と商談中

ゴルフ好きの米大統領が、アラブの皇太子と商談中

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死の商人が軍縮を言うか?

🦊2018年4月17日===ロイター(東洋経済`NET`)

「あからさまな武器商人トランプの危険な

内幕」より

「この(トランプの)政策は、海外向けの

武器売却により、さらに数十億ドル獲得する

ために、大統領や閣僚から大使館のよう外交官

に至るまで、「政府一丸」となって後押しする

ものだと米当局者は話す.さらには面倒な手続き

を簡略化し、k協定を結んでいる同盟国の日本や

韓国だけでなく、NATO加盟国やサウジアラビア、

その他の湾岸同盟諸国向けの広範囲な武器売却に

おいて、契約承認を早めることを求めている。

詳細の多くは機密扱いにいなるという」この恩恵

を受ける企業には、ボーイングのほか、防衛機器

大手のロッキード・マーチン、レイセオン、

ジェネラル・ダイナミクス、ノースロップ・グラマン

含まれる」



  🦊この記事は転載禁止なので、キツネの下手な漫画で

補足したい.

要旨:(昨年11月の日本の訪問で、米国兵器をもっと

購入する よう公式の場で安倍晋三首相に直接要請した.

最近では、サウジアラビアのムハンマド皇太子との

会談で売却された米国製ジェット機や艦船、

ヘリコプターなどの兵器の写真パネルを前に、米国製

軍用品を記者団に自慢して見せたが、其の傍で皇太子は

笑みを浮かべて座っていたそうだ)・・・2020  11. 13

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2020年10月===NHK「世界のドキュメンタリー」より

幼いイエメンの男の子が涙ながらにいう。「アメリカが、

サウジに武器を売るのをやめて欲しい!」と。

夜も昼も爆弾の雨が降り注ぐ街。ちょうど結婚式に集まっていた

人たちを爆弾が直撃した。何人もが死んだ。いわゆる「誤爆」が

頻発しているらしい。

サウジアラビア政府は、国境付近でイエメンの反政府勢力軍が

暴れるのを排除したい。そこで米国から最新鋭戦闘機を買った。

どこの戦闘機からの誤爆かはっきりしないが、砲弾の破片からは、

米国製であることが分かっている。

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富永つとむ画    本文より拝借……突撃爆雷を抱えた対戦車特攻隊

富永つとむ画 本文より拝借……突撃爆雷を抱えた対戦車特攻隊

玉砕はしないと言えた人たち

玉砕はしないと言えた人たち

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これが私の戦争だった」ーー1兵士の太平洋戦争ーー

井手静    高校生文化研究会    1982年  刊=(凸版印刷)

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🦊「玉砕せよ」と部下に言い残して、早々とピストル自殺をした将校の話

などを聞くたびに、自己の無責任と臆病を自ら言い訳し、美化さえする、

何が大和魂か、と無性に腹が立つ。

次の体験記「これが私の戦争だった」は、違う行動をとった兵士と上官の

物語である。


 p100 転属命令

(井手伍長はシンガポール守備隊の野戦自動車廠に勤務中に、突然の転属

命令を下された)7月31日のことである。午後4時、部隊本部の「命令

解放」を告げるラッパが鳴り響いた。我が勤務中隊の命令受領者である長身

の村上曹長が、急いで飛び出していく。

 戻ってくるなり、私に言った。「井手伍長、後で中隊事務室まで来てくれ」

今年の3月、私は兵長から伍長に進級していたのである。勤務中隊事務室に

 入り、机の上の文書をちらりと見た瞬間、私は頭部にガンと一撃を喰らった

ような衝撃を受けた。それは、「転属命令」だったのである。

転属命令というのは、軍人にとってこれほど重大なものは無いとさえ

言える。死地に赴くのも、この転属命令によってであるのだ。(中略)


転属命令書には次のように書かれていた。

作戦命令第○号発 部隊長片岡大佐

昭和20年8月1日付け

勤務中隊 陸軍伍長 井手静

  同  陸軍上等兵 村上三義

  同  陸軍一等兵 堀田弥四郎

右者軍令陸甲第〇〇号及岡総発第〇〇号により岡第〇〇部隊に転属を命ず

 ・・その夜、日ごろ尊敬する秋田県出身の佐藤忠勝曹長を訪ね、転属の件を

 相談した。佐藤曹長はトツトツとした東北弁で、「まあ、井手、一杯やれ

え」と茶碗を差し出してくれた後、命令書の写しを取り上げて眺めていた

が、突然驚きの声をあげた。「ちょっと待てえ、井手、お前の転属する

岡〇〇部隊というのは、今般マル秘で新設された対戦車特別攻撃の教育隊

だぞや」・・私に発令されたのは、"特攻隊"への転属命令だったのだ。

居住まいを正した佐藤曹長が、静に口を開いた。「井手よ、戦局はまさに

重大だ。お前をはじめ村上上等兵、堀田一等兵は、我が勤務中隊の模範的

下士官兵だ。まず、この転属命令では死を覚悟せよ。しかし、お前たちだけ

では死なせん。我々も必ず後から行くからな。井手よ、きっと・・」

佐藤曹長と別れの杯を交わした後、私は村上、堀田の二名と、明朝の部隊長

への申告の段どりを打ち合わせ、二人に身辺の整理を命じて自室へ戻った。

・・一応身辺整理が済んだところで、鳥取県出身の村上曹長が訪ねてきた。

「身辺整理が済んだら、井手よ、恩賜の煙草だ。吸わんか」菊の紋章入り

のタバコを差し出された時、思わず私の目から涙がはらはらと落ちた。

とうとう遺書は書かずに就寝した。


2階級特進!

明ければ8月1日である。午前9時、背中に背嚢、鉄帽を背負い、腰に120発

実包をつけ、手には歩兵銃を持った軍装で、村上、堀田の二名を引率

して、部隊本部の部隊長室へ出向した。・・日頃は行ったことのない部隊長

室なので、私たちはコチコチになって入っていった。

「申告に参りました」「よしっ」「陸軍伍長、井手静以下三名の者は、

昭和20年8月1日をもって、岡第〇〇部隊に転属を命ぜられました。

ここに謹んで申告いたします。敬礼!」捧げ銃をすると、部隊長の鷹揚な

返事が返ってきた。「よし、ご苦労」

部隊長室を出ると、戦友の辻内富士雄伍長に呼び止められた。私たちを隣の

 部屋に導いた辻内伍長は、厳粛な口調で言った。「お前たち三名は、2階級

特進であるぞ」思わず私たち三人は顔を見合わせた。・・2階級特進となる

と、 私は軍曹を飛び越して一挙に曹長となる。しかしその時は、もう私たち

この地上に生きてはいないだろう。・・私たちは心中密かに「いよいよ

来たるべきものが来たのだ」と覚悟を決めたのであった。

特攻訓練

翌8月2日朝、術科訓練に先立って行われた教育隊長の訓示は、ひときわ強烈

極めたものであった。「悠久の大義に生きよ」と戦陣訓を引用してのその

訓示は、お前たちは死ぬためにこの特攻教育課に来たのだという観念を、

私たちの頭の中に叩き込むものであった。

演習開始のラッパが鳴り響き、演習が始まった。3中隊2班・井手班の三名

は、一番・井手、二番・村上、三番・堀田と一連番号が付され、それぞれの

任務を与えられていた。まず三人1組で、背に負ったエンビ(シャベル)と

十字鍬とで三人がすっぽり入れるくらいのタコツボを掘る。深さはおよそ

1m50センチ、その中へ長さ2・5mの刺突爆雷を持って三人が潜むのである。

次に、このタコツボから地上がよく見える潜望鏡を出し、そのレンズに一番

私がかじりついて前方を注視する。潜望鏡にはメーターがついており、

300mを起点として、前方から戦車が近づいてくるにつれ、そのメモリが

50m単位で250m、200m、150m、100mと表示がでた瞬間、三人が爆雷を

抱えて地上飛び出し;、戦車目掛けて突進するのである。

 爆雷の持ち方はあたかも「肉弾3勇士」の如く、まず私が先頭に立って指揮

とりつつ爆雷の信管を抜く。二番目の村上は私の後ろ、中央にあって、

爆雷がふらつかぬようにしっかりと支え持ち、三番の堀田は最後尾、爆雷を

押すようにして走る。そしてこの決死隊三人もろとも敵戦車に体当たり

して、これを爆破するという、誠に日本陸軍ならではの"神風的"戦闘法で

あった。壕の周囲や私たちの鉄帽、被服は、敵戦車に見つからぬように、

付近の草むらや土の色に似せた同色迷彩でカモフラージュしてある。

こうして三人、身を固めて壕の中に潜み、潜望鏡をのぞくと、"仮設敵"の

戦車の砲塔から、 鉄帽に白帯を巻いた少年戦車兵がときどきこちらを見て

いた。M1とかM4といった三十トン級の超重戦車に対しては、私たちの

刺突爆雷でその砲塔を攻撃するなどというのは及びもつかないことである。

そこで薄い部分をねらって刺突爆雷をぶち込むという戦法をとっていた。

ーーとこう書けば、簡単なようであるが、しかし実際の訓練は大変で

あった。演習であるから、"仮想敵"が撃ってくるのは、もちろん弾薬の

入っていない空砲であるが、戦車の機関砲や重機関銃でバリバリ撃って

くるタマは、空砲と言えども非常な威力があった。一般演習中に、

38式歩兵銃で撃ち合うときも、30m以内に接近した場合は、空砲とは言え

危険であるから、空に向けて撃つのが基本であり、常識とされた。南方では

演習中によく蛇を見かけたが、歩兵銃に空砲を装填して、ぶっ放すと、

蛇はバランバランになって飛び散ってしまうほどであった。その空砲が、

戦車の砲塔から火を吹いて飛び出してくるのだから、演習中に負傷者が

出ないのが不思議なくらいであった。口の重い村上上等兵が言った。

「これでは、まず生還は期し難いですね。敵前50mで飛び出した時は敵は

バリバリ撃ってきているんだし、 その一発が刺突爆雷にでも命中したら、

我々の体はたちまちコッパミジンでしょう。うまく突っ込んだ時はもちろん

だけど・・」

「それが肉弾3勇士の運命だよ」私が答えると、堀田一等兵がボソッと

言った。「そうすると、2階級特進なんて安いもんですね」

それにしても毎日、猛訓練が終わり、宿舎の内務班に帰ってくると、夕食に

出てくる加給品の豊富さに驚いた。酒こそないが、饅頭、大福などの甘味

品、マンゴー、マンゴスチン、パイナップル、ドリアンなどの果物、

高級タバコのスリーキャッスル、 パイレーツの缶入りなどが、山の如く

出てくるのであった。どうせ先の決まった特攻隊員の命だ、生きているうち

にたっぷり食わせてやれとの、教育班長の思いやりだったのだろう。

訓練は対戦車攻撃だけではなかった。手旗信号なども含み、各班同士の連絡

方法の訓練もあった。こうして、熱帯の炎熱のもと、猛訓練、猛演習のうち

に8月の日々が過ぎていった。


p111 敗戦・混乱・放浪

8月15日、内地では、正午、天皇陛下自らのラジオ放送によって、「終戦」

知らされたが、シンガポールの私たちには何事も知らされぬままに過ぎ

た。翌16日も過ぎ、17日を迎えて、午後4時、突如として非常招集のラッパ

鳴り響いた。攻撃隊員全員が集合すると、教育隊長が壇上に上がった。

顔色が青ざめ、緊張の様子がありありと見える。腰の軍刀をすらりと引き

抜き、型の如く敬礼が終わった後、隊長の口をついて出たのは、思いがけぬ

言葉であった。

「天皇陛下の命により、当教育隊を、ただいまをもって解散する。よって

下士官兵は、速やかに原隊に復帰せよ」

一体どうしたのだ?教育隊長の突然の解散宣言だけではよく事情が飲み

込めず、私たちは混乱した。私たちは今日だって猛訓練をやった、それなの

に、この特攻隊を解散するのはなぜなんだ?しかもそれが、天皇陛下の

命令だというのは、どういうことなんだ・・?

やがて各原隊から迎えの自動車がやってきた。車に駆け寄った私たちは、

運転席の兵に尋ねた。「一体どうなったんだ?何があったんだ?」運転席の

兵の返答はあっけなかった。「終戦になったんだってさあ」


p114 竹林地少佐の自決

原隊に帰り、勤務中隊事務室に行くと、長身の今村曹長がいた。今村曹長

は、私を見るなり言った。「井手、死ぬなよ。死んではいかんぞ」

今村総長がなぜこの一言を発したのか、そのわけはすぐ分かった。天皇陛下

の終戦の 詔勅が伝えられるとともに、シンガポールはじめ南方駐在の各部隊

には大混乱が生じ、収拾すべからざる状態となって、自決(自ら命を断つ

こと)する将校下士官兵が続出し、そのため各部隊では幹部が必死になって

自決寸前の者たちの説得にあたっていたのである。まして私は、つい先刻

まで、決死の特攻隊員として覚悟をきめ、猛訓練に励んでいたのである。

終戦によって、不意にその精神の支柱を外され、絶望のあまり自暴自棄と

なって自決するかも知れぬ、と今村曹長が危惧したのは当然であった。

・・翌18日早朝、午前4時ぴったりに、またしても非常呼集のラッパの音が

ブキテマの山に鳴り響いた。第二大隊全員、軍装して集結せよ、の命令

だった。

 地上に立ち込めた朝もやの中に整列した我が第二大隊の前に、竹林地達登

(ちくりんじたつと)大隊長が仁王立ちに立った。私が密かに尊敬する白皙

長身の陸軍少佐である。彼は腰の軍刀をギラリと抜き放つと、朗々とした声

で、こう訓示した。

「日本軍破れたと言え、我が第二大隊全員は未だ無傷である。生きて虜囚の

辱めを受けず。かくなる上は、イポー北方4キロの地点において、英軍

マウントバッテン軍の来襲を阻止する。日本男児の意気地を見せるのは、

まさにこの時である。我が第二大隊の奮起を望む!」

まだ混乱の中にあって、敗戦を実感できず、自分自身の気持ちを整理

できずにいた私たちの胸中を、竹林地大隊長のこの断固たる訓示は一直線に

貫いた。ためらう暇もなく、大隊長の訓示に応じて第二大隊は、直ちに出撃

の準備にとりかかった。兵器、弾薬、食料など、トラック50台に積み終わっ

た時である。営庭を横切って駆け寄ってきたのは、片岡幸作部隊長であっ

た。部隊長はまっすぐに竹林地少佐に近寄るなり、いきなり少佐を突き飛ば

した。「貴様は8月15日、恐れ多くも陛下より賜りたる詔勅のご趣旨が

わからんのか!みだりに兵を動かしおって、とんでもない奴め!早く兵を

解散させよ!」顔面蒼白になった片岡大佐は、竹林地少佐をこぶしで殴り付

けた.竹林地少佐は無念そうにがっくりと首うな垂れていたが、部隊長の

鉄拳制裁がやむと、整列して光景を見守っていた私たちに「解散」と宣し,

将校宿舎のほうへ歩み去っていった.・・・・

将校宿舎の方角で、「ドン!」という銃声らしい音がした。不意に、ある

予感が私を打った。私は将校宿舎へ走った。・・

竹林地少佐は、左手に軍刀をもって腹一文字にかき切り、右手の拳銃で

頭を撃ち抜いていたのだ。誠に武人としての潔い最後であった。・・・

(残された遺書には、抗命の罪は武人としてこの上なく重く、一死を持って

大罪を謝し奉る、とあったが)ところが、後日広島出身の下士官から聞いた

話では,少佐のような高級将校は、常に南方総軍の司令部に出入りして

おり、戦局についても、日本国内の状況にいついても明るかった。したがっ

て8月6日、広島に原爆が投下され、一瞬にして広島市が壊滅させられて

しまったことも承知していた。ところで、少佐の実家は広島市の寺であり、

その寺は市内の中心地にあった。そのため,父母兄弟姉妹、家族全員が

原爆によって全滅の悲運に見舞われたことは確実であった。

その悲報に接して以来、少佐の顔に懊悩の影が深まり、今で言えば

ノイローゼ気味になっていたということであった。・・

思えば自決した竹林地少佐は、私の真に畏敬する大隊長であった。剛毅で

ある反面、私たち兵隊の身の上にもよく心を配り、大声を上げて怒鳴り散ら

すだけが得意のあちこちの中隊長とは異なり、まさしく武人の亀鑑

(かがみ)であった。尊敬する大隊長の自決に遭遇して、私もようやく

敗戦を実感し始めていた。(中略)


p121 集団自決の心理

(歩兵連隊旗と昭南神社神殿に、日本軍自らの手で火が放たれた)

神社がすっかり焼け落ちて、白煙がたなびいているのをはるか山上から

見ていた私は、大日本帝国の崩壊をはっきりと感じ取った。私だけでなく、

忠霊塔衛兵の一同は、誰もがそう感じたようであった。

 「ああ、俺はもう死にたくなった」「大隊長も切腹したしなあ」「よぉし、

俺は死ぬぞっ」

誰かが言い始めると、もうそれを遮る者はなかった。歩哨掛の上等兵が

大声で叫んだ。「もう戦争は終わったんだぞ、歩哨なんかやめて、早く

衛兵所へ引き上げろ!」

衛兵司令の私以下九名全員が、ブキテマ山上の忠霊塔衛兵所に集合した。

窓からもう一度昭南神社のほうを眺めると、焼け跡からはまだ白煙が立ち

上っているのが見える。「みんなよく見ろ。この状況は、明治維新の会津

鶴ケ城と同じだ.戦争に負けた日本へオメオメ帰って、一体何ができる?

我々は、ジョホール、ブキテマで名誉の戦死を遂げた幾千の英霊を守る

名誉ある衛兵だ。この幾千の英霊の碑の下で死のう!大隊長も待っていて

くださる。ここで死ぬのは日本陸軍兵士として本懐だ。違うかっ!」

そう大声で叫んだのは、衛兵掛上等兵である。衛兵司令の私を無視しての

発言だったが、私にはもう気にならなかった。

 忠霊塔衛兵は、前にも書いたように全部で九名である。自決するには、銃を

構え、二人ずつ相対して、私一人がハンパになる勘定だ。私は、一人だけ、

自分の銃で自決することに決めた。

 私の命令で、全員黙々として38式歩兵銃に五発装填の実弾を込めた。安全

装置をかけた上、私を除いて全員が2列に相対して並び、互いの心臓部に

銃口をピタリと突きつける。そして、「用意!」「撃て!」の号令で一斉に

引き金をll引くのだ。

私自身はどうしたか。私に拳銃があれば、竹林地大隊長と同じように、

こめかみに銃口を当てて一発で十分である。しかし、長身の38歩兵銃では

それはできない.そこで巻き脚絆(ゲートル)を解き、編上靴も脱いだ上、

靴下もとって裸足になった。そして、銃の引き金に木の枝を差し込み、その

両端を左右両足の親指と第二指とで支え、銃口を心臓部に当てた。

こうして、自分自身の号令と同時に、両足に力を込め、グッと押さえれば、

弾丸は間違いなく私の心臓を撃ち抜いてくれるのだ。

こうして準備をしながらも、私の脳裏に浮かんだのは、やはり内地に残した

母と妻のつる、それに今は6歳になっているはずの娘の稀子(ひろこ)のこと

であった。どんなに可愛くなっているだろうと思うと、望郷の思いが胸を

突き上げてくる。しかし、その想念を、私は必死で振り払った。また思った

のは、

この場の八名の中には死にたくない者もいよう、ということであった。

一時の血気にはやって集団自決したとして、この責任は誰がとるのか?

衛兵司令の私、井手伍長はその責任を取り切れるのか?それで良いのか?

しかしこの想念も、私は無理やり追い払った。

銃の安全装置を外し、いよいよ「用意!」の号令をかけようとした時で

あった。背後にカッカッと高い靴音がした。振り返ると、数メートル離れた

ところに同じ部隊の田中久雄伍長が銃を肩にして立っていた。部隊衛兵司令

とし上番中らしく、その巡察にきたのであった。田中伍長は私と同年兵で

あるが、現役兵で私よりずっと年も若く、勤務中隊では学科、術科、品行

全てに抜きん出ている優秀な下士官であった。頭の回転の速さでも中隊随一

の彼は、私たちの姿を見るなり、直ちに状況を見てとったようであった。

彼の機転によって、私たち九名は辛くも死を免れるのである。

「待て、死ぬのは早い。話がある」

田中伍長は大声でいうと、まだ銃に手をかけたままの私たちのそばに足早に

近づいてきた。「なんだ、お前たち、死に急ぎおって!ただいま本部に

入った情報も知らんのだろう」

「そんなもんは知らん」自決の前に飛び込んできた田中伍長に、私はそっけ

なく答えた。

「そうだろうと思った。知っておって死にいそぐ馬鹿はおらんからのう」

「じゃあ、一体どんな情報だ」

田中伍長はゆっくりと私たちを見渡しながら、もったいぶった口調で

言った。「実はのう、今入った情報によると、こうなんじゃ。我々の部隊は

輜重兵に属しておる。歩兵の第一線部隊とは異なるのだ。よって、わが部隊

と同系統の兵站部隊である野戦兵器廠、野戦貨物厰ともども、わが部隊は、

第一番に内地へ帰還できることになった。その情報がさっき入ったんじゃ」

「ウワーッ!」兵隊たちの間から歓声が上がった。同時に一同、ドカドカと

田中伍長を取り囲む。どの顔も輝いている。つい今まで死のうとしてい

ことなどすでに何処かへ消しとんでいた。誰かが咳き込んでたずねた。

「内地へ第一番に帰れるなんて本当ですか?」

「もちろんだ。俺が嘘を言うと思っているのか」

いくつかの質問におうように答えて、まもなく田中伍長は銃を肩に降りて

いった。みんなはニコニコ顔でその後ろ姿を見送った。さっき、あれほど

死を思い詰めていたのに、全く呆れるほどの変わり身の速さであった。

しかし、これが、外地においてふいに終戦を知らされ、混乱、動揺に陥った

兵隊たちの

心理状態であったのだ。夕方になって,また巡察に現れた田中伍長に,私は

さっそく聞いた. 「その後、司令部の情報はどうなったか?」

 「うん、大本営から近日中、北支・中支・南方各方面軍へ、天皇陛下の

ご名代として、各宮殿下が差し使わされることになり。湘南島の岡総軍司令

部には閑院宮春仁殿下が来られることになったそうだ」さらに話を聞くと、

あの竹林地少佐がそうだったように、終戦に承服できない将校たちが独断で

兵を動かし、今後進駐してくる連合軍に対して戦闘を挑んだりすると、

収拾のつかない混乱状態となり、せっかくの天皇陛下の戦後の詔勅を無に

してはならないというのであった。

 のちに、私たちの部隊が真っ先に帰還できるという田中伍長の情報は、

私たちの自決を思い止まらせようとした田中伍長のウソであったことが

わかった.そのウソによって、私は死の淵から引き戻されたのであった。

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 🦊その後、武装解除、密林での原始生活を経て、イギリス軍のチャンギー

刑務所(シンガポール)に収容され、取り調べ、飢餓地獄(朝にビスケット

三枚、午後にドロップ4粒が1日分の食事)、元住民の襲撃、技術部隊への

志願(主人公は左官業が本職)で"特別食"にありつく、・・・

突然の全員無罪放免の宣告、出所の順番を待つが、井手伍長は放免されず、

リババレー作業隊(実は捕虜強制収容所)に送り込まれ、(総人口約1万名)

種種雑多な部隊からきた兵士とともに重労働に明け暮れる。1日にレーション

1個で腹ペコだ。「私たち日本兵の捕虜を作業に使役できるのは、イギリス軍

にとって極めて有利であったろう」

空腹のあまりインド人やマレー人に物乞いして食べ残しのカレーを恵んで

もらったり、 (ただしこれは中国人には通用しなかった)また、倉庫での

荷運び作業で、衣料品を盗み出して中国商人に売ったり、「しかし、

わたしたちがこういうことをやるのは、食うためでもあったが、同時に、

意思表明でもあった」。

建築作業班でのはたらきが評価されて,食事等の待遇もよくなった.

作業所主任の若い英軍将校との友情談なども語られる.

昭和22年5月、南方からの第一次帰還船で帰国。


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奪われた人びとーー戦時下の朝鮮人ーー塩田庄兵衛著

朝日ジャーナル 「昭和史の瞬間」上 1974年   朝日選書刊

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🦊:ここで、宗教と(あるいは個人崇拝と)教育、それに絡んだ

「ノーと言えない人間」作りの手口について知りたいとキツネは思った。


p334

  ーー大正天皇は、明治天皇のおぼしめしをおうけつぎになって、

 一視同仁の御いつくしみをますますおひろめになり、京城に

朝鮮神宮をお建てになって、天照大神をおまつりしてまつりごと

のもとゐをお示しになり、明治天皇をおまつりしてまつりごとの

はじめを明らかにせられて、朝鮮のまもり神になさいました。

このやうにして、皇室の御めぐみは、あまねく朝鮮に及んで、

人々は安らかな生活を営み、内鮮一帯のまごころがしだいに深くなり、

平和のもといがかためられました。

朝鮮の政治は、代々の総督が、ひたすら一視同仁のおぼしめしを

ひろめることに力をつくしたので、わずか30年ほどの間に、

たいそう進みました。したがって、世の中は穏やかになって、

産業は開発され、中でも、農業や鉱業の進みが著しく、海陸の

交通機関はそなはり、商業がにぎはひ、貿易は年ごとに発展して

ゆきました。

 また、教育がひろまり、文化が進むにつれて、風俗やならはしなども、

しだいに内地とかはりないやうになり、制度もつぎつぎに改められて、

内鮮一体のすがたがそなはってゆきます。地方の政治には自治が

ひろまり、教育も内地と同じ家の名前をつけるやうになりました。

とりわけ、陸軍では、特別志願兵の制度ができて、朝鮮の人々も国防の

つとめをになひ、すでに戦争に出て勇ましい戦死をとげ、靖国神社に

まつられて、護国の神となったものもあり、氏(うじ)を称へることが

ゆるされて、内地と同じ家の名前をつけるやうになりました。ーー

(初等国史、第6学年、朝鮮総督府、昭和16年3月31日)


p334     “開発“の名のもとにーー

私たち日本人は、日の丸弁当の味を知っている。いかに梅干し一つの

おかずとはいえ、とにかくそれは白米であった。・・

しかし豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)日本でも、神武以来

白米を常食としてきたわけではない。日本人が(正確にいえばその大部分

が)三度三度米を食うようになったのは、米騒動(1918年)以降のことだが、

それは殖民地朝鮮における「産米増産計画」の実施と時を同じくしている。

この計画は、はじめ1920年からの15ヵ年計画として立案され、

なかなか順調に運ばなかったが、太平洋戦争開始のころまで強行された、

朝鮮統治の重点政策であった。それが残した成果は、数字に表れている。

つまり、1912年から33年までの約20年間に、朝鮮における米の生産高は

幾らか増加しているにかかわらず、朝鮮内での消費量は絶対的に減少して

おり、一方、日本への輸出は、50万石から870万石へとめざましく増加

しており、とくに1931年以降は、全生産高の約半分が日本にはこばれて

いる。その結果、朝鮮人の一人当たり消費量は、年間7斗8升(約140リットル)

から4斗1升(約72リットル)へと半減しており、日本人一人当たりの半分にも

足りない。これが数字の語るところである。

米騒動で表面化した日本国内における米の不足、米価の値上がりを解消

して「低米価・低賃金」政策を維持する上で、安い朝鮮米の輸入が大いに

役立ったことは確かだが、米作りに精を出した朝鮮人は、米が食べられなく

なった。彼らには、満州(中国東北)から輸入された雑穀があてがわれた。

朝鮮人は粟をくえ、である。「産米増殖計画」とは、実は「産米取り上げ」

政策であったのだ。日本人の指導による土地改良、農業技術の向上の成果を

評価するためには、それが朝鮮人自身に何をもたらしたか見る必要がある。

 同じ性質の問題に、「満州事変」以後の工業化政策がある。1930年代に、

朝鮮の工業化が猛烈な勢いで進んだ。鉱山が開発され、水豊ダムのような

大発電所が建設され、日本窒素肥料株式会社の大化学工場が創業し、鉄道網

が広がった。しかし、民族資本が成長したのではなかった。そこで製造され

たのは、下請け的な部分品であり、金、鉄鉱石、石炭などの地下資源は、

原料として日本に運ばれた。活躍したのは、三井、三菱、住友、野口

の四大財閥であった。その目的はもっぱら軍事的であった。

工業化政策とは戦争の前線に近い朝鮮に、大陸侵攻のための足場を築く

兵站基地化政策であった。

そのさい、朝鮮人労働者の特別の低賃金が利用された。王子製紙の社長

藤原銀次郎が、体験を語っている。

「当時、朝鮮の工場は、労働者を日本から連れてゆき、社宅も与え、日給

も二円ぐらいであった。朝鮮人の日給は2〜30銭から4〜50銭止まりで

あった。」(「回顧70年」)

同じ30年代には、これまでの米作り一本の農業政策に代わって、「南綿北

羊」政策と呼ばれる地域的分業が強制されたが、これも綿花と羊毛を工業

原料として要求する、日本資本の都合から割り出された政策であった。

「開発」とは「略奪」に他ならなかった。特産の朝鮮牛が、1911年から

45年までの間に、約170万頭生きたまま日本に運び去られたが、その内

40万頭は、太平洋戦争の時期に強制「供出」させられたものであった。

しょせん朝鮮の経済は、植民地の型を刻印されたものであった。


p336   皇国臣民化

日中戦争が始まると、国家総動員体制の一環として、朝鮮人の「皇民化」が

図られた。朝鮮総督・宇垣一成陸軍大将の言う、「いざ鎌倉の際にも、

絶対に母国日本を裏切らない」朝鮮人を鍛え上げることが課題である。

1938年からは、これまで学校でわずかな時間教えられていた朝鮮語

の授業が無くなった。先生は、その理由を「天皇陛下は日本語でお話に

なる。我々は天皇陛下のお言葉がわからないと、大御心通りの生活が

できない。だから朝鮮人は1日も早く日本語がわからなくてはならない」

からだとと説明した。


p338  強制連行

何を恨もか   国さえ滅ぶ

家の滅ぶに    不思議ない。

運ぶばかりで   返しちゃくれぬ   

連絡船は地獄船・・・

現在日本には約60万人の朝鮮人が住み着いている。

むろん好き好んで日本に渡ってきたわけではない。故国を追われた人々、

強制連行された人々、あるいはその子孫である。1910年の「日韓併合」

と同時に、朝鮮統治の第一着手して、「土地調査事業」という名の「土地

とりあげ」:が10年に渡って強行された。近代的な土地所有権を設定する

という触れ込みであったが、その結果、100余万町歩の田畑と1120余万町歩

の山林が日本の国有地に編入され、また日本人地主の所有地となった。

たとえば、植民地会社として設立された東洋拓殖株式会社(東拓)は、

1910年の所有地1万1千町歩が、10年後の1920年には10万町歩に

10倍化していた。土地測量隊が通り過ぎたあと、いつのまにか先祖伝来の

土地が自分のもので亡くなっていた。

1920年代には、先に見た「産米増殖計画」の強制で、水利施設、土地改良

の費用負担に耐えられない農民が、どんどん土地を手放す羽目になった。

その上、日本人農業移民が多数入り込んできて、朝鮮人は小作もできなく

なった。土地を追い立てられた朝鮮人は、満州、シベリア、あるいは日本へ

と流亡した。

第一次大戦で高度成長をとげた日本資本主義は、安価な朝鮮人プロレタリア

を歓迎した。日本人の労働ブローカーが、内地にどんなにうまい話が転がっ

ているかを宣伝した。朝鮮人労働者の大部分は、道路、

鉄道、河川工事などの日雇人夫、すなわち不熟練の筋肉労働に従事

した。しかも賃金は日本人労働者の半分かせいぜいそれを少し上回る程度

であった。それも前近代的な親方制度でピンハネされた。

1939年には日本で国民徴用令が交付され。軍需産業の労働力不足を補う

ため、大々的な労務動員が始まった。実情は次のようなことであった。

「納得の上で応募させていたのでは、予定数になかなか達しない。そこで

郡とか面(村にあたる)とかの労務係が深夜や早朝、突如男子のある家の寝込み

を襲い、或いは田畑で働いている最中にトラックを回して、何気なくそれに

乗せ、かくてそれらで集団を編成して北海道や九州の炭鉱へ送り込み、

その責を果たすという乱暴なことをした」(鎌田沢一郎『朝鮮新話』)

たしかに乱暴なことは、アフリカの黒人狩りの昔話に劣らなかった。

駆り出された当人たちは、どこへ連れて行かれるのかも知らなかったが、

行き着く先は、炭鉱、金属鉱山、水力発電所、軍事施設などの工事場で

あった。1939〜45年の間に、34万名が炭鉱に送り込まれており、日本の

全炭鉱労働者 の約3分の1を占めるに至った。日立鉱山では1943年現在、

全従業員5万1千人のうち2万1800名が朝鮮人であった。土建業には

17万名が送り込まれた。そして炭鉱、鉱山にも、朝鮮女性が慰安婦として

配置された。



木刻連環画集ー花岡ものがたりー       より

木刻連環画集ー花岡ものがたりー より

聞き書きー花岡事件

地獄絵図ーーまさにその通り。これがカッコいい

日本軍人の姿なのだ。

聞き書き花岡事件ー野添憲治  著ーーお茶の水書房    1992刊


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p13   地獄絵図

しかも、有蓋車にはもちろん便所がなかった。大便や小便は車内の一隅を

決めておき、そこでやったものの、匂いは車内に充満した。しかも真夏の

暑い盛りに、空気もほとんど入ってこないだけに、弱った体はその匂いだけ

でまいってしまった。

また、食事は4日の間に駅弁を一つだけ渡されたものの、水は一滴も渡して

くれなかった。喉はヒリヒリと乾き、気が狂いそうになったという。

中にはとうとう我慢ができなくて、自分の小便をのむ人もいた。だが、

乾いた喉に塩分が沁みるので、あまりの痛さに頭を板に叩きつけて悲鳴を

あげたという。

下関からは297人が乗ったのに、大館に着くまでに2人が車内で死んだ

のだった。真夏のことなので、すぐに死体が腐り、その匂いがまた中国人

たちを苦しめた。

花岡線の大館駅から客車に乗った中国人たちは、多くの警官に守られながら

花岡鉱山へと向かった。終点の花岡駅で下車すると、共楽館という大きな

劇場の広場に連れて行かれた。炎天下の広場で整列させられたあと、しばら

く待たされた。身体が弱って一人で立っておれない人は、仲間の肩につかま

っていた。中国人たちを見ようと、広場にはたくさんの人が集まり、ぐるっ

と人垣ができた。中年の主婦が「可哀想だな、こんなに暑いのに、素足で

歩いて・・・」と、思わず口走った。すると、これを聞いた警官が走り

寄ると、「この不忠国者!」と、主婦の顔を握り拳で力一杯殴りつけた。

殺気立った空気を恐れた見物人は次々と姿を消してゆき、窓の隙間や

物陰からこっそりと見る人が多かった。

木箱に上がった鹿島組花岡出張所長で、中山寮の寮長の河野正敏が、訓話を

した。華北労工協会から派遣された通訳が、中国人に伝えた。要約すると

「東亜各国が共存共栄のため、日本は大東亜戦争という聖戦を続けている

が、日本は神国であり、不敗の皇軍であるから、必ず勝つ。そのために

日本へ来たお前らは、十分に働け。もし怠ると、徹底的に罰を加える」

中山寮は補導員の事務所、宿直室、炊事場、倉庫などのある一棟に向かい

あうように長方形の3棟があった。これが中国人の宿舎で、汽車のように

真ん中が通路で、両側は板を敷いた居間と寝室の兼用で、上下の2段に

なっていた。背の高い人だと頭がつっかえるほど低かった。4棟から少し

離れたところに、病人を収容する部屋の他に、遺骨の安置室と看護人が

入る棟があった。それより山の方に、死体焼き場があって、近くを小川が

流れていた。

中国人たちが寮の前に整列すると、護送してきた警官たちは、鹿島組の

人たちに引き渡して帰って行った。295人の大隊長は、大陸を出発する前

から耿シュンに決まっていた。元国民党軍の将校で、なかなか信望のある

人だった。大隊長の下に副隊長、書記、軍需長、看護長を一人ずつ置き、

大隊を3つの中隊に分けてその下に小隊を置いて、それぞれ中隊長と小隊長を

おいた。中隊長以上の人たちは、現場で働く人たちよりは仕事が楽だったと

いう。


中国人たちはこうして自分が寝起きする寮に入ったが、この晩のことを

林樹森さんはこう言っている。(彼も李さんと同じように裁判の証人として

残り、そのまま日本に永住した)

「花岡高山に着いた晩、会食のことを言っていた。なに出るか楽しみに

してたら、夜遅くなってから出たの、イワシ1匹と饅頭一つね。寮の中に

私たちのご飯作る人、いないでしょ。私たちの中から料理作れる人選んで

作ったから遅くなったの。饅頭は、うどん粉少しより入っていないの。

あとはリンゴのカスとか、どんぐりの粉でしよ。あとは知らない草みたいな

物いっぱい入ってる。ふわふわしないから、ぜんぜん饅頭の味しないの。

だけど、おなかすいてるから、イワシと饅頭、すぐになくなったさ。イワシ

の頭も骨もみんな食べた。大きい骨も残さないね」

同じ晩のことを林さんは、「でも、イワシ1匹とまんじゅうひとつでは、

誰の腹も満足しないね。そこで、顔洗うというて寮のわき流れる水汲んで

きて、それ飲んだの。でも、それわかると叩かれるから、まず顔洗って、

捨てるフリしてのんだの。わたし今も考えるけど、水いっぱい流れとる

でしょう。いくら飲ませたって誰も損しないさ。それなのに、飲ませないの

だからね。飲むの見ると、すぐに棍棒が飛んでくるでしょ。おかしいこと

ね」

まもなく寝る合図の軍用ラッパが鳴り、寝る時間となった。中国人たちは、

着のみ着のままのすがたで、板の上に横になると、自分の膝を抱くように

丸くなった。夜はもうすずしく、羽目板の隙間から、冷え込んだ夜風が吹き

込んでくると、ブルブルと身震いがしたという。

(河野正敏(40)が花岡出張所長で、中山寮長も兼ねていた。だが寮長の仕事は

寮長代理の伊勢に任せて、自分は大館市の豪勢な借家から鹿島組花岡出張所

へ通っており、その下には労務、配給、その他の係と女子事務員を含めて

20人ほどが勤めていた)

中山寮長代理は、もと裁判所の書記だったという伊勢知得(40)で、伊勢の下

には庶務(食糧)係の小畑惣之介(32)がおり、傷痍軍人で、中国の戦場から

帰還した人であった。このほか有明千代吉(45)という元軍人もいた。

もう一人の庶務(事務係)は越後谷義勇(19)で、軍隊の経験がなく、中国人

をかばいだてするとして、同僚から良く思われなかった。

実際に監督に当たった補導員は、福田金五郎(35)、長崎辰蔵(30)猪俣清

(30)、桧森昌治(35)、吉谷四郎(25)の5人で、小畑と同じように、傷痍軍人

で、中国戦線からの帰還者だった。清水正夫(25)は日中混血で、中国語が

上手であった。石川忠助(40)も軍隊の経験がなく、越後谷と同じに、

中国人から信頼された。(中略)

こうした人たちが中国人の相手をしたのだが、補導員の中に5人、庶務に

1人の計6人が中国戦線帰りの傷痍軍人と、一人の日中混血がいたことに

注目すべきである。大陸生活の体験があり、片言にしても中国語がわかる

というのが採用条件だったのかもしれないが、結果的にはこの人たちが

大陸でおこなった同じ行為を、花岡の地でも繰り返したのだった。

花岡事件の生き証人として、今も札幌に住んでいる劉智渠さんは、こう回想

している。「伊勢の左に立っている補導員は、頭と眼の大きい男で、大きな

眼鏡をかけ、口の引き締まった顔で、異常な存在感を与える人間だ。

胸に白布には「福田」という姓が書かれてある。彼の左隣りには「清水」と

いうのが立っているが、これは小太りした男で、背丈はさらに低く、きたな

いあまりスマートでない男だ。さらにその左隣りのは「石川」といい、

中年の男で、八時ヒゲを蓄え、人相の悪い凶悪な顔つきである。一番左のが

「越山」という痩せた丈の高い男で、着物の上にたくさんつくろった針の跡

がある。伊勢の右隣には「小畑」というのが立っていて、中肉中背、額の

へっこんだ、唇の大きい男で、眼が大きく、生きた閻魔王のように凶悪に

見える。その右隣に「猪谷」という男が立っているが、これも伊勢と同じ

ように少しも笑顔の見られない豚のような男である。一番右翼に「長崎」

というのが度の強い近視の眼鏡をかけている。良く見ると片目しかなく、

もう一つの目はつぶれている。片目しかないけれども人を射るような光を

放ち、普通の人の両眼よりも更に怖い感じがする。日本はたしかに神国

である。伊勢配下のこの7名の勇猛な「虎将」は、誰一人として凶神や

厄神に似ないものはない。ただ惜しいことにちんばの「李鉄枴」一人を

欠いているが、あとでこれが加わって「八仙」となった」「中国人の手記」

中国人俘虜犠牲者前後委員会ーー


p22   中山寮生活

花岡鉱山での中国人たちの生活は、午前五時に鳴る軍用ラッパの音で始まっ

た。座ったまま大きなあくびを2〜3回やり、手で目を2〜3回こすってから

掌で顔を何回か撫でると、もう朝の準備は終わった。

朝食は小さな饅頭一つと、皮がついたまま煮たフキが一本だけだった。

食べたという気持ちがしないうちに、もう無くなっていた。

弱い朝の日がさしてきたころ、中国人全員が外に呼び出されると、中山寮

の前に整列した。伊勢寮長代理や補導員も集まると、南に向かって

「皇居遥拝」をした。それが終わると、伊勢寮長代理の訓話がはじまった。

「みんな初めて花岡に来たのだから、特別待遇として最初の1週間だけ

休暇を与えるが、その後は本格的に仕事に入ってもらう。この1週間も

遊んでいるのはもったいないから、山を開墾して畑を作ることにする。

この仕事も大東亜建設に尽くす義務の一つだから、怠けたりしないで、

精一杯働け!」


蛯沢の中山寮から作業現場まで行く迄の苦しさを、中国人たちはこう言って

いる。

「労働するの時間、朝の6時から始まるでしょ。それに、中山寮から川掘る

現場まで、かなり遠いね。私たち看護班も、はじめは病人いないから、土方

の仕事に歩いたよ。誰か現場で死ぬ人あると、蛯沢まで運んできて、焼いた

けどね。補導員に殴られて、歩けない人も中山寮に運んできたが、あれ、

遠かったね」(林樹森)

「遠いさ。あれ、4キロはあるよ。それに、山の坂道が半分以上あるから

ね。朝下っている時はいいけど、晩に帰る時は大変さ。途中で息切れて

何度も休むね。休むの見つかると補導員の棍棒とんでくるから、息切れ

そうになっても、なかなかやすめないの」(李振平)

こう語っているように、人目にたたない道順が選ばれたのは、外国人の捕虜

や日本人に会わないようにしていただけでなく、補導員の棍棒で半殺しに

された中国人が背負われて行くのも目につかないようにしたからだった。

時には殴り殺された中国人が運ばれることもあった。作業現場との往復も

大変だったが、仕事はそれ以上に辛く苦しいものだった。川に掘り下げる

ところは雑木の茂った石ころの平地だった。青写真を手にした日本人の技師

たちがハガネの巻き尺広げている助手を相手にして、赤白のポールを立てて

測量しながら、トランシットやレベルを据えていた。

測量の終わった現場では、中国人が「ノコやクワで雑木や雑草の根株に

挑み、ある現場は表土を掘り終えて、やがて幅3m程の川の格好を作り始め、

ある現場では、崩し始めた山から沢にかけて、残土を運ぶトロッコの

仮レールを敷いていた。」(地底の人々)というように、作業がはじまった。

だが、まったく初めての日本式の土木作業をする苦労は大変であった。

「仕事は、平たい地面のところ深く掘って、水流してくる川作ること

でしょ。仕事のやり方、補導員が大隊長に話して、大隊長から中隊長、

それから私たち小隊長、それから班長に伝わってくるの。仕事の時間、

だいたい午後の6時となってるけど、6時に帰れる人、何人もいないよ。

一人が1日働く分として、川を掘る面積、1㎡ずつ割り当てられるの。

6時までにその分の仕事、おわった人は帰れるけど、その分終わらなかったら

暗くなっても帰れないさ。晩の8時頃まで働く人もいたさ」(李振平)

土木機械は一つもなく、スコップにツルハシに、縄で編んだモッコという

ように、体を使った仕事は大変であった。

第一次の295人を年代別に見ると、10代=24人、20代=90人、

30代=49人、40代=30人、あとは不明となっている。

働き盛りの20代から40代まではいいとしても、10代の子供たちにも、

50代の年配の人たちにも、同じ量の仕事を割り当てた。


しかも、補導員たちの暴力がいつも彼らの体をおそった。

「正月過ぎてから、変わったこともう一つあるよ。正月の前の饅頭の中には

リンゴのカスとかドングリの粉入っていたが、正月すぎると、うどん粉ぜん

ぜん入っていないさ。リンゴのカスもわずかより入らなくなって、なんだか

わからない木の皮の粉など、入っているの。口の中に饅頭入れると、臭く

て、砂みたいにザリザリして、固くて、とても食べられたものでないの。

こんな食べ物ばかりつづくから、体の弱い人、年寄りの人、どんどん死んで

いくよ。もう、ほんとに苦しいよ」(劉智渠)

だが、私たちが県庁で見た資料では、正月後も鹿島組の中国人たちには、

日本人と同じ量が配給されている。しかもその食糧は、食糧営団花岡精米所

に勤めていたK子さんが、鹿島組に毎日たくさんの食料を届けていたと証言

している。それにもかかわらず、病人の食糧を半分に減らしたり、うどん粉

もほとんど入れない饅頭を食べさせたりしているのだ。これまで何度も

書いてきたように、鹿島組の人たちは、その食糧を横流ししたり、また

家に持ち帰って家族に食べさせたり、近所の人とか、上司に配ったりして

いたのだった。

今年(昭和57年)新たに花岡事件を調べ直した際にも、何度か大館市や花岡に

行った。その時に会った初老の婦人は、

「あの当時はなス、日本人のわたしたちも、食うものがなくて苦しんでいた

んだス。明日食べるものがない、と言うこともあったからスな、鹿島組の

人が食べ物を盗ったって言うども、少しぐらいのことは、仕方のねえ時代で

なかったのでねスかね」と語っていた。確かにあの時代は、日本人も

食うに食われない時代であった。わたし自身も、苦しい飢餓体験を持って

いる。しかし今、その体験も和らぎ、この婦人のような発言が生まれて

くるのも、わからないではない。だが、次のような資料を見ると、どうだ

ろうか。

花岡鉱山の鹿島花岡出張所に、295人の中国人強制連行者が連れてこられ

る前、もう一団の中国人たちが花岡鉱山に連れてこられて強制労働をさせ

られていた。これは花岡鉱業所が使用したもので、298人の中国人は東亞

寮に入って働いていた。しかし、日本が敗戦になって帰国するまでに11人

が死亡している。ところが、中山寮の中国人たちはいわゆる「花岡事件」

と言われる蜂起が発生する昭和20年6月30日までに、鹿島組に連行

されてきた295人のうち、113人も死亡しているのである。花岡事件を

経ているので、さらに多く死亡しているが、同じ花岡鉱山で働き、同じ量の

食糧の配給を受けながら、なぜ鹿島組だけが、桁外れに多い死亡者を出して

いるのだろうか…… 。


p114  戦争がはげしくなってくるにつれ、機械の補給は全く当てにならなく

なり、設備も部品や資材、人手不足のためほとんど手がつけられなくなった

そのため、施設は日毎に老朽化していった。しかし、生産目標の達成は

軍部からの至上命令であると同時に、産出量はまた企業の利益にも結び

ついていたので、こうした全てが不備の中では、大量に人力を投下するより

外に、産出量を増大させる方法はなかった。特に、最も多くの労働力を集め

た昭和19年前後には、実に1万3000人もの労働者を擁したというから

大変なものである。花岡鉱業所に残されている資料によると、この当時の

労働者の内訳を見ると、次のようになっている。直轄人4500人、朝鮮人

4500人、徴用工600〜800人、学徒隊300人、俘虜  米人、(英豪人含む)

300人、華人徴用工(東亞寮)298人、請負業者人夫1500人。

この内訳を見てもわかるように、直轄人夫と請負業人夫の合計6000人を

除くと、鉱山労働者は素人ばかりだった。1万3000人いた労働者の約半分

が、そういう人たちであったのである。労働力不足のため、県内から徴用

された寡婦や娘たち、15歳未満の少年までが、抗内で地下労働をさせられ

たという。だが、軍部からくる生産目標を達成し、企業の利益を上げるため

には、素人でも構わないから、さらに多くの人員をつぎ込むという悪循環

を繰り返していくことになった。これは花岡鉱山に限らず、日本国中の鉱山

が戦時中にとった経済方針であった。


p130 中国人に対して、こうした虐待を続ける一方では、労働の強化を

押し付けてきたのだった。秋田県労働課の指示のもとに、秋田県労務報国会

が県内の軍需工場に対して

工事突貫期間を計画したのだった。工事突貫期間が始まると、補導員たちは

さらに残虐になっていった。働く時間が長くなったのに、食べ物はますます

悪くなるため、草など食べる人が多くなったが、それも見つかると、

たいてい殴り殺された。毎日のように誰かが殺されていく中で、花岡事件へ

蜂起する芽が育まれていた。李振平さんの話を聞こう。

「私たちの小隊に、蒔同道という人がいたの。この人の体大きいから、

とくに腹減るわけね。その日も腹減ってどうしようもないから、仕事の途中

に裏山に登って、青く伸びた草食べていたわけね。仕事終わって寮に帰る

点呼とったら、わたしの小隊で一人足りないわけね。指導員が小畑だから、

特に悪いよ、小畑は。

「逃げたに違いない。みんなで探せ」と、山とか田んぼとか探した。その

時、裏山で草食べてる蒔さんみつかったさ、縛って寮の前に連れてくると、

みんな見ている前で、棍棒で叩いたね。顔でも、首でも、背中でも、どんな

所でも好き勝手に叩くさ。倒れると、今度踏むわけね。蒔さんの体、血流れ

て、腫れてくるの。気失った蒔さん、看護棟に運び込まれて、ひいひい苦し

そうに呻いて、三日後に死んでいったさ。

劉沢玉も、夜中に食べるもの探しに出たの見つかったの。寮の前とかうしろ

に、チョロチョロの水流れる小さい川あるの。その小さい川の中に、小さな

カニとか魚たくさんいるからね。指導員が寝た夜中に、川に行ってそれ

とって食べるわけね。たくさんのひと、夜中に寮からでて、それ取って食べ

たけど、運悪く劉さん見つかったわけね。一晩、縛られたまま寮の外に投げ

られていた。次の朝、私たち小隊長以上の人、みんな事務所に集められた

さ。伊勢寮長代理が劉さんの罪のこと説明してから、私たちに劉さんの

こと、殴らせようとしたの。だけど、わたしたち前に、同胞のひと殴って、

気絶させたことあったでしょ。その時、どんなことあっても、わたしたち

殴り殺されても、同胞をなぐることはしまいと、相談して決めていたの。

今度、私たちに叩くように脅迫したり、殴ったりしたけど、誰も叩く人

いないでしょ。そのこと悪いと言って、劉さんのこと裸にして、6人も7人も

かかって、。補導員たちが好き勝手に棍棒で叩いたり、靴履いた足で蹴っ

たり踏んだりするの。栄養のある補導員たち、力一杯思いっきり殴るから

ね。劉さん痛いから、大声あげて、泣きながら机の下に逃げていくでしょ。

机の下から引っ張り出してきて、またどんどん殴るの。

気絶するでしょ。バケツに水くんで来て、倒れると劉さんにかけるでしょ、

気がつくでしょ。また「このヤロウ!」と叫んで叩くの。事務所の中、

劉さんの大便出たのとか、晩に食べたカニの吐いたのとか、いっぱい

散らばったね。それでもまだ叩くから、こんど、転んで逃げるでしょ、

体に大便とか吐いたものとかつくの。それ人間の格好じゃないね。

横になったまま、息もつけずにハアハアしているさ。

こんど清水がね、鉱山で使うレールあるでしょ。そのレールを、炊事場の

かまどの火で、赤く焼いたの持ってきたの。あの時のこと、今でもはっきり

覚えとるよ。息もつけないほどになって倒れとる劉さんの股に、その赤く

焼けたレール差し込んだのね。劉さん、悲鳴をあげて、その赤く焼けた

レールを手でつかんで、除けようとするでしょう。手が黒い煙出して、焼け

ていくの。ジリジリって、焼ける音もするさ。今度、

補導員が何人も寄って、劉さんの手とか足押さえると、清水が睾丸にその

レールあてて、引っ掻きまわしたの。部屋の中、人の焼けた煙でいっぱいに

なったさ。劉さん、こうして殺されたの。わたしたち、その事ぜんぶ

見ていたさ。でも、劉さんとこ助けようとすれば、自分も殺されるかも

しれないから、誰も黙っていたけど、そのやり方、あまりにもひどいよ」


p152   一斉蜂起

午前1時きっかりに蜂起する計画だったのに、それよりも2時間半も早い

午後10時半前に、張金亭の配下にいて、事務所の補導員たちを襲うこと

になっていた劉玉林と劉玉卿の二人が、ツルハシで任鳳岐を一撃のもとに

殺してしまったのだった。しかも、その時は、李さんたち一行が動き始めた

ばかりで、まだ具体的な準備にはほとんど入っていなかった。そのため、

逃げたり脱出したりする補導員を待ち伏せするために、伏兵も置いてなかっ

た のである。どうして2人は、早すぎた行動を取ったのだろうか。

「わたし70人ばかりを集めて、東亜寮に向かおうとしていた時、寮の

中でギャアという大きな男に悲鳴聞こえてきたの。わたし、びっくりして

寮の中に入ったでしょ、もう、任鳳岐が殺されているの。気持ちが早まって

事務所とか宿直室の窓口とか、その他の部署に人たちがつかないうちに、

任のやつを殺してしまったわけね。いまかんがえると、二人の気持ちも

わかるさ。蜂起の時間が来るの、今か今かと、いても立ってもいられない

気持ちね。それで、我慢できなくなって、手を出してしまったわけね」

と言っている。

だが、計画より早く任鳳岐は殺されたとしても、蜂起は始まったのだった。

「任鳳岐が血しぶきをあげて葬られると、それをきっかけに全寮に

ドドドッという声と音が沸き起こった。この物音に目を覚ました補導員たち

が立ち上がりかけると同時に、20数人の一隊が寝室になだれこんだ。

入口の方に寝ていた、猪俣が、続いて桧森がツルハシで喉をぶち抜かれて死

んだ。通訳をしていた于傑臣がすさまじい悲鳴をあげて、『俺は于傑臣だ。

殺さないでくれ』と大声でわめいた。そのため、長崎、小畑が外に飛び出し

た。さらに清水、伊勢が窓から逃げた。アメリカ軍俘虜収容所を襲撃する

一隊80人は中山寮から『にげた、にげた』と声を聞きつけて、取って返

し、逃げようとする長崎、小畑を川辺で追いついて殺害した。だが清水と

伊勢は、転びながら砂利道を本部の方へ逃げてしまった。


蜂起前夜

木刻連環画集ーー花岡物語  より。本文より拝借

木刻連環画集ーー花岡物語 より。本文より拝借

🦊

日本人は残虐だという気がして、何とも

やりきれない。この頃流行りの私設文部省に

チクられたら、すぐ削除される、痛い真実。

でも、下士官や小隊長が、中国大陸で

野獣のように生きて、そして帰ってきた。

彼らはもともと残虐なのかそれとも変質した

のか、とにかく、軍法も無法、何もかも下位

の軍人に任せての「聖戦」だから、

出鱈目だ。それがカッコイイって?とんでもない!

p152   一斉蜂起

午後1時きっかりに蜂起する計画だったのに、それよりも2時間半も早い

午後10時半直前に、張金亭の配下にいて、事務所の補導員たちを襲うこと

になっていた劉玉林と劉玉卿の二人が、ツルハシで任鳳岐を、一撃のもとに

殺してしまったのだった。しかも李さんたち一行が動き始めたばかりで

(🦊注  李さんは、中国にいた時ゲリラの経験のある人たち70人ばかりを

東亜寮の前に潜ませ、蜂起と同時に日本人監督を襲って、中国人たちを

解放する予定であった)逃げたり脱出したりする補導員を待ち伏せするための

伏兵も置いてなかったのである。李さんは、

「私たち70人ばかりを集めて、東亜寮に向かおうとしていた時、寮の中で

ギャアという大きな男の声が聞こえてきたの、わたし、ビックリして寮の

中に入ったでしょ。もう、任鳳岐が殺されているの。今考えると、二人の

気持ち、わかるさ。蜂起の時間がy6くるの、今か今かと、いても立っても

居られない気持ちね。それで、我慢できなくなって手を出してしまったわけ

ね」

続いて李さんの証言を聞こう。

「計画失敗したものだから、逃げた補導員たち、直ぐ鉱山町とか事務所に

走ったのでしょ。寮の中の人たち、どうしたらいいかわからないから、

ウロウロしている人、多いよ。そうしているうちに、下の方で警報の

サイレン鳴ったり、半鐘なったりするの、きこえてくるでしょ。遠くの方で

電灯とか松明の明かり、激しく動くのみえてきたの。暗い夜の中で、そんな

の聞いたり、見たりすると、早く逃げたいという気持ち、強くなってくる

ね。不安も出てくるの、当然のことね。どこに逃げていくという当ても

なく、走り出してしまうわけね。それに、武器はぜんぜんないでしょ。

何人かの人、スコップやツルハシ持ったけど、重いから走る途中に、捨てた

人多いよ。……」

しかし、元気な人たちはそれでも、食糧庫からわずかな食料と、ツルハシ、

トビグチ、クワ、シャベル、鎌などを持ったり、また衣服などを着て逃げる

ことができたが、看護棟の病人や怪我人は大変であった。

看護棟にいた林さんは、こう証言する。

「夜中になって、寮の方で人の叫ぶ声したでしょ。ガラスの割れる音とか

するね。それからたくさんの人が叫ぶ声とか、板が破れる音とかするね。

劉智渠さん起き上がるとランプに火つけたでしょ。それで、みんな起き上が

ったね。計画だと、補導員たち殺したら、食べ物たくさん作ってから持って

いくことだったから、あまり慌てなかったの。時間あるからね。だけど、

計画失敗したことを、知らせてきたでしょ。食べ物作る時間ない、すぐ山に

逃げろと連絡があったでしょ。初めの計画だと、50人ばかりいた病人た

ち、みんなで手分けして、一緒に連れて行くことだったけれど、このこと

できなくなったわけでしょ。早く逃げないと、警察やってくるというので、

起き上がれる人たち、我慢して起きて、看護棟から出たの。起き上がって

歩けない人たち、入り口まで這い出してきたね。這う事もできない人たち

「待ってくれ!」「僕も連れて行ってくれ!」

と、病室の中で叫んでいるの。私たち何人かの看護人、歩けない人助け

たり、背負ったりして病室の外へ出たけど、重病の人多いでしょ、とても

みんな連れていけないの。寮の人たち、バラバラになったり、固まって

逃げ出していくの、暗い中で見えるでしょ。わたしたち、気がせくわけね。

早く逃げて行きたい気持ち、誰でも同じさ。計画だと、看護棟にも火を

付けて、焼くつもりだったけど、動けない重病人たち、寮の中に残っている

から、焼くことできないでしょ。仕方ないけどそのままにして逃げたの。」

いっぽう、取り締まりの側にいたひとり、もと秋田憲兵分隊伍長のHさんの

話を聞きたい。

「花岡で暴動が起きたというのは、県警から電話で第一報が入ってわかった

が、夜中で時間ははっきりしませんな。大館はお前の地元でくわしいだろう

から、まずお前が先に行けと言われたが、車がないから、無蓋貨車に

補助憲兵13人を連れてしゅっぱつした。霧の深い朝が明けてきた頃で

あったから、7月1日の午前5時頃でなかったかと思うス。話をきくと、

大半の中国人が獅子が森に逃げたというんで、地理はよく知っているもの

だから、下代野を回って行ったら、地元の人たちが竹槍とか、本物のヤリを

持ったりして、ウロウロしておったスな。後で中山寮に行って、補導員

が殺された現場とか寮をみたり、話を聞いたりしたども、中国人があんな

ひどい扱いをされているのを初めて知ったわけだス。わたしの耳には全く

聞こえてこなかったス。また、憲兵隊から見れば、アメリカ人とか朝鮮人

にはかなり気をつけていたども、中国人は問題外にしていたわけだす。

私も花岡鉱山に行くと、鹿島組の人とは会ったども、中山寮には行かなかっ

たものな。

それともう一つは、鹿島組花岡出張所に、まともな人がいなかったという

ことだスべね。もっとしっかりした人がいれば、あんなことにはならなかっ

たと思うス。

また、憲兵隊では、暴動の鎮圧に当たると同時に、県警を通じて各新聞社

に、記事の差し止めを命令したわけだス。だから新聞記者は花岡に入れなか

ったわけだす。それから、花岡とか大館の郵便局では、郵便物の

検閲をやったス。手紙の封を切っては、花岡の暴動のこと書いてあった手紙

は、没収したわけだス」

Hさんの証言で、当時の新聞をいくら見ても、これほどの大事件が1行も報道

されていないことや、敗戦後も遅くなってから、広く知られることになった

原因もわかった。

看護棟の樹森さんたちは、病人と一緒だから、いくらも逃げられずに、

いちばん最初に捉えられた。

「夜が明けても、私たち病人と一緒だから、いくらも逃げられないさ。

朝が明けたころ、警察の人がきて、私たちを捉えたね。つかれているから、

たたかうこと、ぜんぜんできないよ。二人が1組に縛られて、トラックに乗

せられたさ。花岡派出所のちかくに、大きな鉱山の劇場あるでしょ。その

劇場の砂利しいた広場に下ろされたの。縛られたまま正座させられて、手拭

いで目隠しされたの。それはわたしたちの首、切り落とすためと思ったね。

そのほうが、叩きころされたり、食べ物なくて飢え死にさせられるより、

ずっと楽だとおもったさ。こんな苦しいのこと、嫌だ。早く死にたいと

おもったから、死ぬの怖くなかったさ」

二番目に捕えられたヨロヨロ組も、共楽館前の広場に縛られたまま連れて

こられた。

それでは、獅子ケ森にこもった主力部隊は、どのように捉えられたのだろう

か。まず、李振平さんの話を聞こう。

「夜が明けると、もう警官とか、消防団のひととか、いっぱいの人たち、

私たちのいる山取り囲むようにしているのが見えるの。夜が明けると、私

たちの体、もうふらふらね。骨ばかりにやせて、食べ物少ない毎日だった

でしょ。その体で一晩歩き続けたわけでしょ。空腹になっても、山の上だか

ら、飲む水もないの。これだから、戦いになっても、どうにもならないよ。

たべものあったら、もっと遠くへ逃げられたけど、そんなものないから、

とても無理ね。すぐに負けるの、分かっていたの」

中山寮から逃げた中国人は、最初に病人とその関係者、次にヨロヨロ組、

最後に獅子ケ森にこもった主力部隊が捕えられた。

(憲兵隊、地元警察の他に、地元消防団、地区警備隊、鉱山男子義勇隊、

女子義勇隊、在郷軍人その他、多くの民間人も捜査や警備に動員されたが、

この人たちの、中国人への扱いもまた、鹿島組の補導員たちのように

ひどいものであった)

「今度、捉えられて二人が一組に縄で縛られて、山から降りてくると、

花岡の劇場の前まで歩かされたの。私たちのこと見た農家の人とか、

花岡町の人とか、石投げてくる人もいたよ。一番苦しいの、水飲みたい

ことね。口の中とか喉とかヒリヒリ痛むよ。「水欲しい」「水ちょうだい」

と、何人もの人たちに言ったよ。そのこというと、何か大声で叫びながら

棍棒飛んでくるよ。今考えてみても、よく生きていたと思うよ。警察の人の

中で、ひどい人もいたよ。水飲みたいというと、桶に水汲んで、私たちの

そばに持ってくるでしょ、その水、ヒシャクに汲んで、目の前につき

だしてよこすの。飲みたいでしょ。後ろに縛られている人を引っ張って顔を

近づけていくわけね。するとその人、水の入ったヒシャクを、だんだん遠く

して行くの。首伸ばして、こんど倒れるでしょ。そのことわるいと、また

混棒飛んでくるわけね。さいごにその水、目の前のジャリにあけたり、

頭にぶっかけたりするの。水、頭から顔に伝わって流れるでしょ、その

舌を出して舐めるの。そのことおかしいといって、みんなで笑うの。

日本の人、ひどいことばかりする人多いね。あの時のこと思い出すと、

いまでも胸が痛くなるほど、怒りが湧いてくるよ。わたしたち死状態に

あるのに、見せ物にしているわけね。三日二晩も座らされていたけど、

食べ物とか水、全然くれないの。疲れと空腹で、フラフラしている

でしょ。もうどうにもならなくなって倒れると、そのこと悪いといって

棍棒で叩かれるから、死ぬ人多くなるわけね。二人一緒に縛られている

うち、一人死んでもそのままにしておくでしょ。わたしの背中に縛られて

いる人、名前も誰だかわからないよ。広場に連れてこられた日の夕方、

もう死んだの。

死んだ相手の体、だんだん固くなってくるでしょ。すると、重くなっていく

の。一人でもたいへんなのに、死んだの人ひとり背負っているのだから、

苦しいさ。こんど、次の日になるでしょ。夏のことだから、死んだ人、

だんだん臭いしてくるの。おもくて、臭いしてきて、どうにもならないよ。

こんど、晩になるでしょ、犬とか、猫とか、何匹も集まってくるの。

死んだ人の手とか足とか、食べようとするの。生きた人にもかぶりついて

くるの。地獄よりもひどいところだったさ。……

朝になって明るくなると、死んだひと、見えてくるの。あっちでもこっちで

も、死んだ人がそのまま広場に捨てられているでしょ。目も口もハエがびっ

しりついているさ。そのハエ、今度は生きとる人の口とか鼻にもとんでくる

さ。いま思うと、ハエにとっても区別がつかなくなっているわけね……」

(林樹森)

j

共楽館前の広場では、普通の人たちでもこのような扱いを受けた。

首謀者とか、首謀者らしいと目をつけられた人たちは、さらにひどい

拷問を受けたのだった。李振平さんの場合は、次のようなものだった。

「私たちリーダーは、広場に座らされたのは半日くらいのものね。私たち

連れてこられてすぐに言ったの。蜂起のこと、。私たちが計画した。

ほかの人たち関係ない。早く寮に返してやって欲しいとね。ほんとは計画に

参加したの8人ね。だけど、わたしたちのちょっとした不注意のために

あとの5人、リーダーの中に入れられたの。8人はみんなもう覚悟決めている

からいいけど、あとの5人は泣いてるよ。私たち関係ない。殺されるのイヤ

だと。私たちそのこと、何回も言ったけど、警察で認めてくれないよ。

私たち13人、花岡派出所につれていかれたでしょ。こんど、どんな計画

立てて、誰と誰が補導員たち殺したか、詳しく白状させようとしたの。

だけど、どの人も、私たち8人がみんなでやった。あとの人たち、ぜんぜん

関係ないというだけでしょ。こんど、調べてる警官たち怒ってね、一人一人

を共楽舘の中に連れて行くの。

天井の高いガランとした劇場ね。はいったときに、とうとうここで殺される

かと思ったよ。劇場の中に入るでしょ。まず何人かでビンタン食わせるの。

わたしたち、立ってもフラフラの状態でしょ。一つビンタンくうと、もう

そのばに倒れるの。倒れると、また立たされるでしょ。するとまた、

ビンタン飛んでくるの。そんなこと何回もやらされるでしょ。それでも

誰も白状しないでしょ。

今度、長い木の  腰掛けあるでしょ、その腰掛けに、仰向けに縛りつけるの。

それから桶に水汲んできて、口と鼻から注ぎ込むの。苦しくって、息もつけ

ないでしょ。からだ動かそうとしても、口とか鼻に水いっぱい入ってるから

声出ないでしょ。また、そんな元気もないから、気を失ってしまうわけね。

ところが、気失ってしまうと、こんど、腰掛けを逆さに立てるの。頭が下に

なるでしょ。すると体の中に入った水、今度は、口や鼻から出るでしょ。

水でると、わたしたち息吹き返すわけね。すると、また腰掛け水平にして、

口と鼻にまた水を注ぎ込むの。気失うと、また腰掛け逆立てにするわけよ

ね。もう自分の足で歩いて帰れないよ。リヤカーに乗せて運ばれて、(花岡

派出所の)留置場の中にほっぽり出されるの。

わたしだけでなく、みんな同じことやられるでしょ。でも8人の誰も自白

しないでしょ。

5人は関係ないから、わたしじゃないからと叫ぶだけね。次の日になるとまた

劇場の中に連れて行かれるの。通訳来て、みんな白状しろ、許してやると

言うでしよ。わたしたち一言も言わないでしょ。こんど、太い注射器持って

くるの、。桶の中の水を、その注射器にいっぱい入れるでしょ。はしごの

上にわたしの体縛り付けて、その注射器腹に刺して、水を腹の中に入れるの

何度もやると、痩せてへこんでいるはら、丸く膨らんでくるの。こんど、

誰か靴のまま腹の上に上がって、腹の上で跳ねて、膨れた腹踏むの。

すると、口とか耳とか鼻からとか、腹の中の水が吹き出してくるの。その

くるしいこと、大変よ。そんなこと、4回も5回もやらされるでしょ。

それでも誰も白状しないでしょ。こんど、天井から垂らしてある針金に、

両方の親指縛り付けて、そのはりがねを、上に巻き上げるでしょ。

体が宙吊りになると、こんど、尻でも脚でも、棍棒でメチャクチャに

殴るの。痛いから、ぶらん、ぶらんと動くでしょ。親指の皮、ベロっと

ハゲて、体下に落ちるの。指は骨だらけで血だらけね。このとき、

ほとんどの人、気絶してしまっているさ。まるで犬か猫みたいな扱い方

されたね。

でも、わたしたち13人、こんなにひどい拷問を1日に多い時で5〜6回も

受けたけど、殺そうとはしなかったね。警察の人たち言うに、おまえたち

日本人殺した。裁判にかけて死刑にする。それまでは殺さないで生かして

おくとね。でも、あんなにされて、生きていたの、不思議なくらいね」


また、この惨事を見たある鉱山労働者は語っている。

「もう全くフラフラに疲れ果ててから逃げ出したのだろうから、共楽館

前に連れてこられただけで死んでいった者が多かったろう。全部二人ずつ

後ろ手に縛られて座らされた。あの暑い時、三日二晩も座らされ、たたかれ

たのだから、たまったものではない。便所へゆくのも二人繋がれたまま、

死んだ相手を引きずりながら、みな用を足した。出る小便は皆血であった。

ところが、水も呑まされず喉が乾き切った彼らは、それを口をつけて呑んで

いる者もあった。本当に気の毒だ、可哀想だとおもっても、ピストルや剣を

突きつけた将校が傲然と構えて憲兵や警官を指揮しているのを見ると、誰も

口に出せるものではなかった。血気の若いものはぶん殴ったり、つついたり

した者も沢山いた。あの当時はあのような気持ちにされてしまっていたの

。だ」………(「草の墓標」)


p185  事件処理

🦊の要約:   昭和20年6月30日、日本は敗戦したが、中山寮の中国人たち

は、このことを知らされていなかった。一斉蜂起は7月1日に始まり、

7日には全員逮捕され、秋田警察の資料によれば、

「事件発生後、7月7日にいたり792人を逮捕、謀議参加または殺人実行

行為者として、13人を国防保安法第16条第二項適用の戦時騒擾殺人罪

として送局した」。

20年8月15日には、日本はポツダム宣言を受け入れて無条件降伏をした。

そして8月17日には内務省主管局防諜委員会から、敗戦に伴う「華人労働者

の取り扱い」について、関係各省に通達された。それによれば、中国人の

労働をすぐにやめさせ、賃金を払い、衣食を支給し、留置者を即時解放し、

死亡者の遺骨を整理して送還の準備をせよ、というものであった。


p201     ところが、秋田刑務所に入れられていた13人の身の上に、不思議な

事件が起きた。まずさいしょに、「秋田県警察史・下巻」には、「このうち

11人が起訴され、秋田地方裁判所で、昭和20年9月11日無期懲役1人、

ほかは十年以下の無期懲役に処された」と書かれている。日本は敗戦に

よって、反乱罪を主張した憲兵も特高もなくなり、敗戦の2日後には

「中国人労働者の取り扱い」の通達が、内務省から関係者に通達されて

いるにもかかわらず、この「中国人の反乱」が戦後に裁判されたという事実

は重大である。

「刑務所にいるわたしたちに、暦渡してくれないでしょ。今日何日かわから

ないわけね。飛行機の爆撃あって、(連合軍の)だいぶ経ってから、第二回の

裁判開かれたの。……後で聞いたけど、この判決あったの、日本が戦争に

負けた後の9月なってからときいて、ビックリしたさ。だけど、正直言って

死刑になると思っていたから、懲役ときいて、軽いとおもったね」

(李振平)


昭和20年9月11日に中国人たちが秋田地方裁判所で裁判にかけられた

4日後の15日に、秋田県に進駐軍が初めて姿を見せた。秋田県進駐の

第八軍先遣隊、ページ少佐以下将校3人、兵4人、通訳2人計10人で、

目的は宿舎の設営や、県内の武器弾薬、軍需物資の状況確認であった。

(中略)

その当時の様子を、大館町役場に勤めていた岩井幸一さんは、こう語って

いる。「先遣隊がジープで来たのは、確か9月18日じゃないかと思いま

す。秋田市に進駐してから3日目のことですね。大館警察署の所長室の机に

どんと座り、あれこれと指令していましたが、署長はそのわきにちょこんと

座っていましたが、負けた国と勝った国の差というものを、つくづくと感じ

ましたね。その光景を見ておりますとですね。日本は負けたのだと、本当に

わかりましたスな。アメリカ兵はいろいろなところへ行ったし、花岡

鉱山にもよく行ってたようですが、どこに行ったかはいっさい知らされませ

んでした。花岡鉱山には、アメリカ軍の捕虜もいたからスな。

本体が来ると、すぐ高いアンテナを立てると、短時間のうちに完成させて、

交信しておりましたね、無線で。それを見て、ずいぶん進歩しているものだ

なと思ったスな」

大館や花岡にアメリカ軍が進駐してきた頃の事情を、三浦元大館署長はこう

語っている。「ところが終戦と同時に進駐してきたアメリカ軍が、どこから

となく花岡事件のことを聞きこんだと見えて、わたしが在職中に3度ばかり

軍政部から当時の事情を聞かれたわけです。たしか20年の9月頃ですね。

この時は案外スムーズに行きましたが、10月ごろになって、突然、仙台

から進駐軍が来て、わたしには何の連絡もなく、直接中山寮へ行って、

詳しくその状況を調査したらしいんです。その結果、華労の取り扱いに

欠陥があったということが発覚し、事業者側の責任者(7人ぐらい)は、

直ちに秋田刑務所へ拘置されてしまったのです。その後においても、

アメリカの法務官3人が来て3回にわたって同じようなことをきかれました

その内容は、私が

①警察官に指示して華労に暴行を加えた。

②一般市民に指示して華労を逮捕させた

③逃亡した華労の身体を縛り上げ、広場(野外)に放置しておくよう指示した

などということでした。これに対してわたしは、当時の状況をありのままに

申し上げたわけです」

こうして花岡事件は、はじめてその姿を明らかにしてゆくのだが、この

時期、中山寮の中国人たちはどうしていたのだろうか。

「わたしたち、日本が戦争に負けたの知ってから1週間ぐらいの後、

アメリカの兵隊、花岡鉱山に来たの。中山寮にも来たさ。アメリカの人

たち、あんたたち、何か要求することあればしてあげるというから、

食べるものと、薬と医者のこと頼んだの。この要求、すぐに実現

したね。次の日の夕方、トラックに、米とメリケン粉積んできたの。

それからわたしたち、ぐんぐん健康になったね。栄養失調で体が悪い

のだから、食べるものいっぱいあれば、みんな若いから、すぐ元気になって

いくさ」(劉智渠)

「病気の人たちと一緒に、わたしたち看護人もみんな鉱山病院へ行ったの。

病院に入ると、アメリカの赤十字の人とか日本の医者とか、何人も来て

病人みるでしょ、食べ物もうんと良くなったね。それからアメリカの人、

アメリカの薬、どんどん持ってきてくれるでしょ。病気の人に

必要だったの、ブドウ糖ね、でも、日本にはなかったね。このブドウ糖を

いっぱい注射してくれたから、助からない人も助かったよ。入院してから

死んだ人、少ないさ。これ見ても、わたしたち中国の人、食べ物とか仕事

で、どんなに虐待されたかわかるね」(林樹森)


p228  B級軍事裁判、証拠隠滅、土建業界への政府補償金、花岡事件ノート

その他

花岡事件の証人として日本に残された24人の中国人たちは、21年4月に

秋田から東京中野の刑務所に送られた。ここでようやく、中山寮から

秋田市にある111師団の司令部を経て送られてきた11人は一緒になり、

無事を喜び合ったのである。外出はできなかったが、刑務所内は自由に歩く

ことができた。そしてかれらは鹿島組の河野花岡出張所長などが独房に入れ

られているのを見つけた。「ある時、河野たち(10人もいたかな)一人だけ

入る独房にいるわけね。私たちのこと見ると乱暴されると思うわけね。

独房の隅の方に隠れるように寄っていくわけね。自分達そんなことばかり

してきたから、同じことされると思うわけね」(劉智渠)

鹿島組東京本社の人たちは、刑務所に尋ねてくると、食べ物を差し入れ

たり、時には刑務所外の料理屋や飲み屋に連れ出した。そして口々に

「あんたたち、まだ若い。日本に長くいる必要ない。早く中国に帰って、

商売するなり、仕事についたりするの得さ」と私たちに言うの。花岡での

本当のこと言わないで、早く中国へ帰った方が身のためになると、買収に

来たわけね」(李振平)

なぜかというと、花岡事件の調査が進められている昭和21年3月24日

に、鹿島守之助鹿島組社長が、総司令部検事局に召喚されたのだった。

事の成り行きに驚いた鹿島組では、重役会において、「弁護士小野清一郎

博士、海野晋吉氏、柳井恒夫氏、加藤三郎氏、伊藤清氏を依頼して、平林、

牧野両氏を加えいわゆる鹿島組弁護団を組織するに至った」(華・鮮労務対策

委員会活動記録)と言うように、事件が上層部にも広がる様子を見せて来た

からだった。

また、日本建設工業統制委員会でも、もし鹿島守之助に戦犯の手が伸びると

中国人を使用した他の13社の責任者にも及ぶのは必至なので、業界挙げて

の波及の防止と、鹿島守之助の無罪の策を講じるため、弁護団を組み、

膨大な額のカネを使って戦犯逃れに全力をあげた。

花岡事件がB級軍事裁判として、アメリカ第八軍司令官が招集した軍法会議

にかけられたのは、22年11月28日からだった。ところで、裁判には

鹿島組花岡出張所の人だけがかけられ、警察関係者は何度も事情は聞かれた

ものの、裁判には関係なかった。しかし裁判が始まる前の7月に、三浦元

大館署長は、突然東京の明治ビルにある本部刑事課に出頭するように連絡が

あった。すぐアメリカの検事に調べられたあと、8月14日に巣鴨の収容所

に入れられると、厳しい取り調べを受けると言うように、急に警察関係者も

裁判にかけられるようになった。それまでなん度も聞かれながらも、裁判

とは無関係だった警察関係者が巣鴨に収容された理由を、三浦元大館署長は

こう語っている。「アメリカ側の官撰弁護人のオブライエンさんが巣鴨拘置

所内で、後藤と私と当時鹿島組責任者だった人の前で、通訳を通じて、

「この事件に警察の人が呼ばれる筋合いはなかった。鹿島組の顧問弁護士

だったという神戸のO弁護士は、アメリカに住んでいたことがあり、その

関係でキーナン検事とは知人関係にあるところから、この『事件は警察署長

が総指揮して、こうした事件になったのだ』という意味の私簡を送った

ためだ」ということを聞いた」(中国人強制連行記録)

しかも、起訴状は45項目にわたって中国人への虐待ぶりを列挙している

が、「その大半は、わたしが大館の警察署長当時、華労を使用管理していた

K組の運営管理は、わたしが総指揮したということなのです。ところが過去

の調べのことについ、lては一言も触れておらなかったし、このデッチ上げ

には、まったく驚いてしまいましたね。何を言ってもあとのまつりで、

どうにもなりませでしたね」(『秋田警察』36年3月号)

O弁護士というのは平林慎一弁護士のことだが、花岡事件の責任は鹿島組

にではなく、警察にあるとGHQに訴えた結果が、こうなったのであった。

しかも地元の一警察署長と一番下級の補導員に責任を押し付け、県の上層部

や鹿島組の幹部には責任が及ばなかった。


第八軍軍法会議は、23年3月1日に左記のように判決を下した。

元鹿島組花岡出張所長  河野正敏    終身刑

同中山寮長代理    伊勢智徳      絞首刑

同補導員    福田金五郎     絞首刑

同補導員    清水正夫       絞首刑

元大館警察署長     三浦太一郎     重労働20年

同巡査部長   後藤健三          重労働20年


こうして6人は服役したが、昭和30年前には全員仮出所になった。

厳しい判決にもかかわらず、まもなく減刑された点は、ナゾになっていた。

ところが、ワシントンにある米国国立公文書館の日本関係書類の中から

米第八軍所属の法務官による「差し戻し再審勧告書」という新資料が見つか

った。「検察側の証拠は有効性に欠け、予断、偏見に誇張に満ち、矛盾

したものだった」「起訴準備段階で立会人なしで被告人の尋問をした通訳

が、後に検察側証人になるなど、通訳として公平な立場を失している」など

8点の誤りを指摘。さらに「有罪と認定した原判決は承認しがたく、新法廷

おける再審のために差し戻すのが相当と思われる」との勧告で結んでい

る。この勧告書が結局、減刑のきっかけになったと関係者は見ている」

((朝日新聞、昭和57年1月28日)


強制連行をしてきた中国人を使用した14会社の連合体である日本建設工業

統制組合では真っ先に次の3点に着手した。

1️⃣中国人強制連行に関する資料、証拠物件を隠滅して、事実を覆い隠すこと

2️⃣「中国人移入」で損害を受けたことを理由に、“国家賠償”の形で国家財政

     から取ること。

3️⃣中国人強制連行に関する戦争犯罪および戦犯裁判から逃れること

3についてばすでにみてきたとおりに、責任は下級職員にだけ負わされ、

上層部には及ばなかったが、1の場合もまったく同じだった。「華・

労務対策委員会活動記録」によると、敗戦翌日の8月16日から、戦時

中の華人および朝鮮人に関する統計資料、訓令その他の重要書類の焼却

を軍需者が指令し、直ちに課員を動員指摘整理し、会計経理に関するものを

のぞき、三日間にわたって焼いた」のである。もちろんこの指令は関係各社

にも出され、各社とも同じような処置をとった。

2の場合だが、敗戦になると日本建設工業統制組合が、国で推薦した中国

人労働者を使ったために、事業面で大きな損失を受けたので、政府に

国家賠償させるという形で、土建業界の立ち直り資金を獲得するため、

あらゆる手段で運動を展開した。その結果、昭和20年12月30日の閣議

で、「終戦後の損害に対する補償」が決定され、日本工業統制組合では、

総額3200万円を獲得し、各社に配分した。鹿島組では次の5事業所で

強制連行した中国人を使った。

鹿島組玉川出張所=連行者200人、死亡者21人

鹿島組花岡出張所=連行者986人、死亡者418人

鹿島組藪塚出張所=転入者280人、死亡者50人

鹿島組各務原出張所=転入者374人、死亡者3人

鹿島組御嶽作業所=連行者655人、死亡者47人

合計で連行者1888人、転入者1309人、死亡者539人となってい

る。それで得た政府補償額は346万1545円であった。

しかもこれで味をしめた日本建設工業統制組合では、今度は戦時中の補償も

要求した。これも21年3月30日付の商工省指令で、「終戦前の損害に

対する補償」も決まり、総額545万円のうちから、鹿島組は

58万3471円の配分を受けた。この他、組合では緊急融資として

6206万円を獲得した。また、厚生次官は中国人を使用した会社に

優先的に融資をするように日本興業銀行に依頼しているが、これらの融資

で、各社は強固な地盤を築いたのである。強制連行された中国人を使用

して、多くの死者や病人を出しながら、逆に損害を受けたとして政府から

補償金を得ているのである。いったいこの事実を、どのように考えたらいい

のだろうか。

さらに4になるが、日本政府は、無条件降伏の義務のひとつである、捕虜

と抑留者に関する報告書を作成するため中国人連行者を使用した各社の

事業所に、「華人労働者就労顛末報告書」を作らせて提出させた。外務省で

はそれに基づいて21年3月1日付で、「華人労働者就労顛末報告書」を

作成した。ところが政府は、その報告書の公表をしないばかりか、外務省

は存在さえ否定している。

(以下略)


戦争とロジステイクス

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戦争とロジステイクス     石津朋之著  日本経済新聞出版   2024年刊

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🦊  第二次世界大戦における日本軍の所業を、「よその国もやってた」、

からと正当化する、あるいは無かったことにしたい、そういう学者や政治家

が今だに居るということが、信じがたい。そこで、改めてこの本によって、

第二次世界大戦と戦時ロジスティクスの関係を学び直してみたい。


p53  「略奪戦争の時代」 イスラエルの歴史家マーチン・クレフェルトの主著

「増補新版  補給戦」に よれば、中世ヨーロッパ世界の戦争では、基本的に

侵攻した地域を「略奪」 することによってのみ軍隊は維持され得た。だが、

略奪を基礎とする中世の 軍事ロジスティクスのありかたは、フランス革命

以後、19世紀ヨーロッパの 「新たな戦争」を賄うには問題が多すぎた。

この時期、現地調達を徹底する ことによって戦いの規模と範囲を劇的に変え

たナポレオンの戦争でさえ、 (🦊  当ブログのどこかに書いたが、ナポレオン

がエルバ島を脱出して パリへと行軍した時に通過したアルプス沿いの村々

は、のちにナポレオン 街道と呼んで、観光名所となっているが、実は

ナポレオンを歓迎しなかっ た。なぜなら、それは略奪街道であり、通過地点

の村々は酷い目にあった からだ。ナポレオン軍は、兵士の食糧、装備、果て

は鉄砲の弾に至るまで 現地調達に徹し、猛スピードで進んだ。市長は市の

鍵を差し出して、何とか 手加減してくれるよう、歓迎のフリをしたのでは

なかろうか)ヨーロッパ中世 のロジスティクス の問題は、必要な物質を

「略奪」することで解決が図られた。 その後、こうした略奪の歴史が第一次

世界大戦を契機として消滅したのは、 戦争が突如として「人道的」なものに

変化したからではない。クレフェルト によれば、戦争での物資の消費量が

膨大になった結果、もはや軍隊はその 所要を現地調達あるいは徴発すること

が不可能になったからである。また 当時の軍隊の特徴として、第一に、糧食

を得るために常に移動し続けること が必要絶対条件であり、第二に、

ロジステイクスのための基地との関係を あまり考える必要が無かったこと、

第三に、物資運搬のための河川を支配 することが必須の時代で、補給物資を

陸路で運搬する必要があまり無かった ことが挙げられる・・ 「17世紀

ヨーロッパの軍隊は、地上を侵食しながら進んでゆく[ウジ虫]の ような存在

であった。後には、飢餓と破壊という足跡が残された」ので ある。

(リチャード・ホームズ、ジョン・キーガン、ジョン・ガウ[戦いの 世界史ー

1万年の軍人たち]大木毅  監訳、2014年  原書房)


p58   プロイセンーードイツ鉄道の登場 クレフェルトの指摘によれば、普仏

戦争においてプロイセン軍が勝利した のは、鉄道の役割が大きかったためで

はなく、実際に鉄道が重要な役割を 果たしたのは、当初の兵力展開の際だけ

であり、ロジスティクスの面では、 プロイセン軍が用いた弾薬は、当初から

大部分が携行されており、作戦での 消費量が極めて少なかったから、結局の

ところ、フランスがヨーロッパで 最も豊かな農業国であり、戦争が最も条件

の良い時期に開始されたからこそ 実現可能になったと言える。 もちろんその

一方で、戦争に将来の方向性を示したものが鉄道であり、従来 の城壁あるい

は城砦では無かったことも事実であろう。


p103     ノルマンディーへの道ー~事前の周到な計画と準備 この上陸作戦を

成功に導いた様々な要因について考えてみよう。 技術力ーーノルマンディー

上陸作戦に際して連合軍は、兵器はもとより、 弾薬や車輌などの必要数を

細かく計算し、これらを集積、さらにはこれらを 目的地まで輸送するための

大規模なシステムを作り上げることに成功した。 まさに、[システムエンジニ

アリング]の勝利であった。 また、オペレーションズリサーチの手法が上陸

戦計画の 立案に用いられた という。また、通常型の戦車が海岸では全く使

えないとの苦い経験から、 イギリスっb陸軍のパーシー・ホバートにより

水陸両用戦車、地雷処理戦車、 火炎放射戦車などの特殊戦車が開発された。

ロジスティクスーー 15万もの戦力を、海を越えて敵地に上陸させるために

必要とされる ロジスティクスの側面の準備の難しさは、容易に想像できるで

あろう。 当時、兵士一人につき1日当たり爆弾96発、糧食3キロ、水9

リットルが必要 とされた。 (以下はNHK BS[ノルマンデイ上陸作戦]による)

つまり、毎月1トンもの補給 物資が必要であり、また兵士が1メートル進む

ごとに18名の支援チームが 必要であるとされた。 これには、炊事係や衛生係

なども含まれている。更に前線の部隊は、200日 毎にその全員を入れ替える

必要もあった。こうして結局、計1800万トンもの 物資がアメリカから大西洋

を越えて輸送されたとされる。 こうしたロジステイクス面での必要性の結果

ノルマンデイ上陸作戦の実施 に祭してはドイツ占領下フランスの港湾を占領

することに加えて、2つの 人工桟橋(マルベリー)の建造が不可欠とされた。

この埠頭は、それぞれ一度に 75隻の艦船の接岸が可能であったとされる。

マルベリーは既に上陸作戦の 半年前からイギリスで建造が始まっていた。

同国からは輸送船に乗せること なく、曳航して運んだ。


p105   上陸作戦に向けた最終調整 1943年には作戦の実施が決定され、支援

部隊を含めて約25万、約7000隻の 艦艇が参加予定であった。そこではこの

技術的可能性、戦力を集中させる 方策、用いられる戦略や戦術、ロジスティ

クスをめぐる問題など、大きな 問題が待ち構えていたのである。 例えば、

ノルマンディ地方の海は潮の干満の差が大きい。海岸線は長いもの の、断崖

が多い。また、同地方には大規模な港湾が存在しない。それでも 他の地方と

比較検討さされた結果、いわば消去法でノルマンディが選ばれ た。他の候補地は、潮の流れが更に激しいか、あるいはドイツ軍の防御が 強固であったた

めである。連合国側はノルマンデイの地形などについて 小型潜水艦による

沿岸調査を行うとともに、航空写真を活用した。 またドイツ軍部隊の動向な

どについては、フランス国内のレジスタンス 組織からインテリジェンス

(情報)を得ていた。加えて、二重スパイの活動も 記録されている。 また

ベルリンから東京へと発せられる日本の外交暗号通信、さらには 日本陸海軍

の暗号通信の解読にも成功していたため、ここでもドイツ軍の 意図は連合国

側に筒抜けであった。(中略)


p108    周到な計画 ノルマンディー上陸作戦に際して連合国軍は、第一に、

ドイツ軍が上陸地点 を特定できないよう徹底して策を講じた。(爆撃地点を

あちこちに散らして、 目標を気取られぬようにした。第二に、上陸作戦に先

立って連合国空軍 および航空部隊によって実施された徹底した爆撃。これに

よって、ドイツ 空軍をほぼ無力化することに成功すると共に鉄道や橋梁など

交通システムに 対する爆撃の結果、ドイツ軍の予備部隊の移動を困難にし、

最前線への ロジスティクスあるいは補給に打撃を与えたのである。第三に、

大規模な 戦力と大量の物資を数週間にわたって輸送し続けるそのロジスティ

クス 計画、とりわけ海軍艦艇および輸送船を用いたロジスティクスシステム

の 充実が挙げられる。これには上陸用舟艇などの準備も含まれる。 個人が

携行すべき装備は多く、40キロ近い背嚢を背負うことになった。 また、実際

に歩兵部隊が上陸用舟艇から降りた所は海中であり、重装備で 約500メート

ルも海中及び海岸を歩く必要に迫られたのである。 ノルマンディー上陸作戦

は、その準備段階から参加した兵士の数や準備され た膨大な物資の量、更に

は英仏海峡を越えての上陸作戦の構想やその後の フランス解放といった事実

を考え合わせれば、ロジスティクスの側面に おいては、疑いもなく[地上最大

の作戦]だったのである。


p142   湾岸戦争のロジスティクス では以下で、1990〜91年の湾岸危機及び

湾岸戦争(第一次湾岸戦争)を事例 としてロジスティクスので役割りについて

やや詳しく考えてみよう。 実は湾岸戦争は、必ずしも広く唱えられている

ような軍事技術の勝利で あったとは言い切れず、また、一部の軍人が信じて

いるような権限の移譲が 行われた結果ーー自由裁量権の付与の結果ーー勝利

を得たのではない。 なるほどこの戦争で、アメリカを中心とする多国籍軍の

圧倒的な軍事的勝利 と、そこでリアルタイムで見せつけられた精密誘導兵器

やステルス兵器の 威力などの結果、その後、『軍事革命』『軍事技術革命』

あるいは RMA(Revolution MIritary Affairs)を巡る論争が巻き起こった。

精度、射程、 情報の領域における軍事技術の革新は圧倒的であるとされ、

これによって 戦争の様相が大きく変化したと考えられたからである。 だが、

ここで少し冷静になって政治的次元として例えば、1️⃣ 国連安保理決議 を

採択するなど国際社会の中で軍事力行使に対する一定の正当性を得た

、2️⃣アメリカを中心として、アラブ諸国に働きかけ、この戦争を 「中東

アラブ世界vs西洋世界」あるいは「イスラム教vsキリスト教」と いった対立

構図が成立しないように止めた。3️⃣ソ連(当時)とも頻繁に 交渉し、同国に

軍事力行使に対する一定の理解を示させることに成功した。 4️⃣戦争勃発後

イスラエルを局外に留める事に成功した。5️⃣ 軍事力行使に 際し、明確な

目標をかかげ、イラクへの過度な関与(例えば、 サダム・フセイン政権の転覆

など)を避けた。6️⃣アメリカ及びジョージ・ H・Wブッシュ(父)同国大統領が

示した優れた戦争の指導あるいは リーダーシップ、7️⃣冷戦終結という国際

環境の下でのアメリカとソ連 の協調関係の維持などが前提条件として整って

いた。(石津朋之『湾岸戦争の ポリテイクス』NIDsコメンタリー第118号)

こうした恵まれた政治状況の下、軍事の次元で、1️⃣パウエル・ドクトリンに

l従って、戦争までの約6ヵ月間、 武器弾薬、糧食などを中東地域に集積する

などl必要な準備を整えた。 2️⃣ 兵士の訓練(例えば砂漠の戦場での)を実施

し、満足できる熟練度まで 達していた、 3️⃣アメリカを中心として、情報

技術(IT)革命の成果を軍事力の中心に組み込 む事に成功した。 4️⃣同盟国

および友好国との連携を密にし、アメリカ軍内の共同作戦及び同盟 国との

連合作戦を円滑に実施し得た、などの条件が揃ったのである。 (石津朋之ーー

『匕首伝説』を考えるーーNIDs コメンタリー第195号)。 とりわけ、事前に

大量の補給物資を戦場の近くに集中し得た能力は賞賛に 値する。実は、この

戦争でさらに興味深い事実は、地上での戦いが 約100時間で終結したのに

対し、その前段階の配備に6ヵ月の時間があった 事実に加え、後段階の撤退

ーー『砂漠の送別』作戦ーーに10ヵ月を費やした 点である。この砂漠の送別

作戦では、兵士はもとより、兵器や機材を戦場と なった砂漠地帯から飛行機

や港湾に移動させ、それらを中東からアメリカ 本国まで持ち帰ったのである

(パゴニスーー山動くーーp225〜)


p237. 湾岸戦争で実質的に多国籍軍のロジスティクスを統轄したパゴニス

は、以下のような 結論を下している。すなわち、『この戦争は戦場でという

より、主要補給 ルートにおいて戦われた。何ヵ月にも及ぶ後方支援の準備が

行われたから こそ、空中と地上での戦闘を1012時間で終わらせることが

できたのだ。』


p148   コンテナの有用性 アメリカ軍が民間のコンテナを導入し始めたのは、

ベトナム戦争も後半に なってから、この地域に展開された50万以上の同国軍

兵士の戦闘と生活を 支えるためには、どうしても効率的なロジスティクスが

必要とされたから である。米国を中心として世界各国の軍隊で補給物資の

迅速な配送を可能に するISO(国際基準規格)コンテナが広く使用され始めたの

は1980年代であり、 湾岸戦争では広く用いられ、4万ものISOコンテナが

使われたという。だが その半分は内容物がわからず、現地で開梱して確認

作業が必要であったが、 イラク戦争では、RFID(Radio Frequency

Identification=無線周波数識別)の 導入によってこの問題は解決された。

つまり、湾岸戦争の時には前線まで 送られてきた軍事コンテナにも何が

入っているのか、開墾するまで全く わからなかったそうである。水が必要な

のに、開けてみたら糧食しか 無かった、違った種類の弾薬が届いたといった

事態が生じたらしい。 それが約10年後のイラク戦争(第ニ次湾岸戦争)では、

コンテナにRFIDが 装着された結果、何がどこにあるのかがシステム全体で

把握できるように なった。必要な量の補給物資を必要な場所に送ることが

できるようになった のであり、こうした技術を無視して今日の戦争は戦え

ない。


p150   イラク戦争ーー「軍事ロジステイクスにおける革命」 イラク戦争で

は、軍事ロジスティクスの外部作戦では外部委託(アウト・ ソーシング)が

大きく進んだとされる。その理由の一つは、大量の物資ーー とりわけ現地で

調達できないハイテク装備品などーーを遠く海外へと移送 するノウハウに

関して、民間企業の方が優れていたからである。(中略)

その一方で、こうした[ロジステイクス における革命]も、新たな問題を生じ

させた。たとえば、イラク戦争の初期の段階では、地上部隊の進撃速度が

あまりにも速かったため、必要な物資を必要なだけ補給するという 

「ジャストインタイム」方式ですら、その欠点を暴露することになった。

また、この戦争ではアメリカ軍の死者の3分の2がロジステイクス担当部隊 か

ら出ていた。 更に近年、軍事ロジスティクスの一つのあり方としてシー・

ベイシングと いった発想が注目されている。これは、同盟国などの領土内の

基地に依存 することなく、アメリカ軍が自由に作戦できる海上基地との

考え方であり、 2002年に発表された作戦である。確かに、ロジスティクス

基地を海上に設け ることができれば、陸上に置く場合とちがって、ホスト国

の承認が不必要な 上、安全性も高まるとされる。シーベイシングは、単に

海上に基地を建設 するだけでなく、所要の装備及び補給物資を、本国から

前線基地や前方に 展開するシー・ベイス(海上基地)に運搬。そこから各種の

運搬方法を用いて 最前線の艦艇や陸上部隊に届けるという、正に一体型

システムの概念なので ある。一般的にロジスティクスは準備可能な範囲内で

戦闘を行うという 「兵站支援限界」で規制する方策があり、日本の防衛省、

自衛隊は基本的に これに従っている。(旧陸海軍はこれと異なる)。だが今後

は、戦闘に必要な ロジスティクスをどうにか準備する「作戦追随型」の方策

も、求められる であろう。より具体的には、倉庫に補給物資を保管し必要に

応じてそれを 最前線の部隊に運ぶような従来の方策から、「策源地」にある

民間企業から 直接最前線の部隊に物資を運搬する方策への転換である。

また、既に コンビニなどで導入されているPOS(Point Of Sailes)システムに

則った管理に より、部隊や兵士個人の糧食や弾薬などの保有量が低下する

と、自動的に 最適なロジスティクス拠点に補給の指示が下されるといった方

策の導入も 検討されるべきである。いわゆる「オーダーレス」の概念を軍事

ロジスティクスにも導入することが求められる。………

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 🦊。このテーマは、キツネがかってにつけたもので、トレーニン氏の

本から滲み出てくる公平な学者らしい良心と、あくまで前向きの見通し を、

「自分の好みに合わせて」受け止めたものである。 しかし、大国アメリカと

いえども、この著作の10年後に、悲惨な他民族 抹殺、無抵抗な老人子供を

銃殺、遺体を道端に放置して、これは ウクライナ側がやった、とか、現地に

転がっていた中距離砲弾の残骸に は、「子供達へ」の文字があったとか、

「我々はウクライナを制圧して 大ロシア帝国を再現するのだ!」とトンデモ

宣言するロシアを、説得する こともできず、そうかと言って日ごろの核の

脅しを実行に移すわけにも いかず、お手上げ状態だ。 この本にはユーラシア

の将来を決めると自負する、NATOおよび強国 アメリカの、愚策と自惚と、

知性の欠落が指摘されている。学者らしい 穏やかなユーモアに包まれては

いるが、その指摘はまさにドンピシャリ、 今日のウクライナ侵攻を予言して

いる、とキツネは思う。

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ロシア新戦略     ドミトリー・トレーニン著                                                   

👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓👓 👓👓👓👓👓p181  より広範なNATO拡大問題(ロシアにおいて)2010年に採択された

最 新バージョンの軍事ドクトリン においてさえ、NATOはロシア連邦に対す

る脅威であると位置付けられて いる。(正確には、軍事的脅威よりも上位の

軍事的危険の第1位に、NATO が挙げられている)冷戦が終結してから20年

が経ち、メドヴェージェフ 大統領が「NATOの攻撃性」なるものが根拠の

ないことだと述べるように なってもなお、NATOに対するこのような反発が

あるのはなぜなのだろうか。 NATOに対するロシアの態度というものは、

片思いと幻滅の繰り返しだった。 多くのロシア人にとって、NATOとは

ヨーロッにおけるアメリカの代名詞 ーーより正確にいえばアメリカ主導の

同盟システムおよび権力基盤を意味 している。特筆すべきことに、そこには

ドイツへの恐怖ないし敵愾心は 存在していない。20世紀の歴史を顧みる

ならば驚くべきことだ。 ミハイル・ゴルバチョフは東西ドイツの再統合に

同意した。この点で彼は、 英仏伊といった全欧州主要国の切実な感情に

逆らって、ジョージ・w・ ブッシュ大統領(父)およびアメリカの側に

立ったわけだ。 1994年に旧東ドイツから最後のロシア軍が撤退すると、

これによって 事実上の和解が完了した。第二次世界大戦当時の戦場跡に、

ドイツ兵の 墓碑が建てられるなどという、20年前なら信じがたい光景も

ロシアの あちこちに見られるようになった。 NATO内のその他の2大

主要国、すなわちイギリスとフランスは、2度の 世界大戦ではロシアの同盟

国だった。特にフランスは、ロシアの歴史的な 同盟国にして友邦とされて

きた。ナポレオンによる1812年戦役とモスクワ の大火は‘遠い昔の出来事

であり、敵意を呼び起こすことはない。シャルル・ ド・ゴールによるNATO

の軍事機構からの脱退と、彼が提唱した「大西洋 からウラルに致るまでの

ヨーロッパ」という概念は、1966年に彼がモスクワ 市庁舎のバルコニーから

熱烈な演説を行ったこととも相まって、クレムリンと ロシア国民とに

「フランスは敵ではない」と確信せしめることになった。 冷戦後、依然と

して東西間の緊張が残る中でも、パリだけはモスクワからの 特別扱いを受け

てきた。 イギリスは一度もロシアに攻め込んだことがないにも関わらず、

ロシア は歴史的に、イギリスがより好戦的であると見ている。イギリスは

ロシアの 辺境部にちょっかいを出してきたからだ。1853年〜54年の戦争で

全欧州が 対ロシアで結集した際、クリミアで起こったことはその最たるもの

である。 (原注:クリミア戦争の初期、トルコ艦隊がロシア艦隊の奇襲で

大打撃を 受けたことに対して、イギリスがナポレオン戦争以来の大規模な

大陸派遣 軍を編成し、対露戦に投入したことを指す) イギリスは現実的な

敵というよりも、政治的な競争相手であり続けてきた。 特に中央アジア

およびコーカサスにおける「グレート・ゲーム」や、冷戦期 にソ連の仮想

敵ナンバーワンであったアメリカとイギリスが密接に協力して いたことなど

は、これに当てはまる。イタリアやスペインのような他の NATO諸国も、

ロシアでは敵と見做されてきたわけではない。トルコのように、 ソ連崩壊後

のロシアと劇的に関係を改善した国もある。 では、ロシアが‘かくも強硬に

NATO拡大に反対するのは一体なぜなのだろうか? ことの発端は冷戦の終結

である。ほとんどのロシア人は、主にゴルバチョフの 和解政策と妥協の

おかげで40年に及ぶ対立から抜け出すことができたと信じ ていた。民主派

は、ロシアが共産主義を捨てたからこそ冷戦は終わりを告げ たのだと主張

した。このほかに、ソヴィエト帝国およびソ連の解体を指摘す る者もいた

が、ロシアのエリートによってその声は圧殺されてしまった。 これら3派の

主張により、大部分のロシア国民は、冷戦の終結は、彼ら自身の 選択で

あり、業績なのだと考えるようになった。もちろん、彼らが 単独で、という

わけではない。レーガン、ブッシュ、マーガレット・ サッチャー、

ヘルムート・コール、フランソワ・ミッテランその他の パートナーの存在が

あってこそであり、それゆえ冷戦の終結は、ロシア、 欧州、アメリカの共同

の勝利と言うことになったのである。 このような観点からすれば、ロシアが

西側の機構に滞りなく統合されてゆく という予測は論理的なものであった。

エリツィンは、1991年12月にNATOに 宛てた最初の書簡の中で、“ロシアが

近い将来、NATOに加盟することを検討 している“と書いた。だが、

クレムリンにとって驚くべきことに、 ブリュッセルからの返事はなかなか

来なかった。そのかわり、ロシア、 他の全ての旧ソ連構成諸国、それに

ワルシャワ条約機構の加盟諸国は、 北大西洋協力理事会(NACC)に参加

するよう招待を受けた。モスクワの 失望は明らかだった。そこで、その

2週間後、次のように書かれた書簡が モスクワからNATO本部に送られた。

先日送った書簡にはミスプリントが あり、正しくは、予見しうる将来に

NATO加盟を検討しては“いない“だった、 というのである。 多くの西側諸国

にとって、ロシアはあまりにも大きすぎて扱いにくくあまりに 無秩序で、

悲惨なまでに整備が行き届かず、そして依然としてあまりに野心的な 国家

った。NACCは、ソ連が結んだ軍縮合意を後継諸国に‘確実に履行‘させる

ことを基本的な目的とする協議グループであったが、これはゴルバチョフの

夢想した「ヨーロッパ人の共通の家」とはかけ離れたものだった。 ブッシュ

大統領(父)が唱えた「統一された自由なヨーロッパ」については、 そこに

ロシアが含まれているものかどうか、エリツィンと彼の外務大臣である

コズィレフは疑問を持っていた。1922年春、ブッシュ政権はワシントンに

おいて、 米露同盟に関するエリツィンの誘いをにべもなく拒絶した。世界中

が平和で溢れ 返ろうとしている今、不適当だというのである。NATO加盟へ

のロシアの希望は 瞬く間に雲散霧消した。1992年にストックホルムで行われ

た劇的な「二枚舌 演説」(原注: 『ロシアは外交政策の概念を修正せねば

なりません。・・ 依然としてヨーロッパへの仲間入りをすることに重点を

置いています。しかし、 我々の伝統というものがかなりの程度ーー主にと

いうわけではないにせよーー アジアに基盤を置いており、これがために

ヨーロッパとの和解には限度がある ということに、我々は今やはっきりと

気づいているのです。・・旧ソ連空間を、 CSCE(欧州安全保障協力会議)の

規範を完全に実施すべき地域と考えるわけ にはいきません。本質的にはこれ

はポスト帝国の空間なのであって、この中で ロシアは、軍事力や経済力まで

含むあらゆる可能な手段を用いて自らの利益を 守らねばならなくなるでしょ

う。旧ソ連の共和国は直ちに新しい連邦なりに 加盟することになるでしょう

が、その交渉は厳しいものになるだろうということ をここではっきり申し上

げておきたいと思います』)において、コズイレフは、 ロシアが孤立すれば

起こるであろう事態について警告した。 1994年、旧ワルシャワ条約機構諸国

(ロシアを含む)とNATOとの安全保障の 枠組みとしてアメリカが「平和の

ためのパートナーシップ」(pfp)を公表 したとき、ロシアはこれを受け入

れた。ロシアはしばらくの間、pfpがNATOの 代替物となるだろうと考え、

pfpを歓迎する姿勢を見せた。まもなく、ロシアは とてつもない失望を

味わうことになった。クリントン政権は、いくつかの国が NATO加盟を

果たすためのルートとしてpfpを再編してしまったためだ。 ポーランド、

ハンガリー、チェコ、スロヴァキアからのNATO加盟の嘆願や、 米国内の

ロビイストからの圧力を受けてのことだった。 当初、エリツィンはこのよう

な動きを黙認する方針に傾いており、1993年に ポーランドのレフ・ワレサ

大統領が訪問した際、そのむね伝えていた。 だが、ほとんど全ての国防、

安保関係者はこれに反対だった。西側との同盟 関係が無い中で、

ゴルバチョフ外交が残した唯一のまともな結果は、NATOと ロシアの間に

広大な緩衝地帯を設けたことだった。それが今や消え失せよう としているの

だ。1993年のモスクワ騒乱において軍事力で民族派を制圧した エリツィンと

しては、幾分方針を転換せざるを得ない状況だった。 1993年12月の下院

選挙は、共産党と民族派が心理的な復讐を遂げたがごとき 様相を呈したた

め、民主派は大きなショックを受けた。民主派はこうした 中で、 西側の動き

をロシアの民主主義に対する不信の表明と受け取った。つまり、 彼らーー

民主派を信用しないということだ。こうして民主派は、ロシア抜きでNATO

拡大を進めればロシア国内で NATOに対する敵対的なイメージが再燃 する

ことは避けられないという警告を発し始めた。彼らは、旧東側陣営から

NATOに加盟する最初の国でなければならないと信じていた。ドイツ再統合

の交渉に参加した人々は、アメリカ側の加盟派にNATOを拡大しないと約束

した、交渉記録を読めば明らかだ、と主張した。従って、 NATOが今やって

いることは約束違反だというのだ。この結論は、モスクワにおける NATOの

評判を大いに落とした。 NATOは、冷戦終結とソ連崩壊の後も消えて無くな

ろうとはせず、軍事同盟として存続し続けたばかりか、ロシアとの国境を

接 する国々を新規加盟国として取り込み始めた。 NATOの担当範囲内では、

ロシアは仮想敵に他ならなかった。西側にしてみれば、ソ連の継承国の筆頭

であるロシアはその結果に甘んじるべきだと考えているーー今やロシア人は

こう考えるようになっていた。

キツネの庭の住人。朝5時頃に門柱の上のガラスケースに戻ってくる

キツネの庭の住人。朝5時頃に門柱の上のガラスケースに戻ってくる

ヤモリの朝帰り

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